>>前スレ998
>宝珠バカが達成できたのかや。バカ丸出しであるよ。
>自分ができないことを宣伝しているのかや。
>それとも迷信で宣伝しとるのか。バカ丸出しであるよ。
この私は理論的に理解するが故に肯定するが、
馬鹿というのは、体験しない限りは信じられないんだな。
尚、物質科学がまだ認めていない超常現象が事実としてあることくらいは、
この私も自らの体験に拠って確認済だ!!
迷信は嫌いだが事実は認める。
真実は一つだからだ。
>>1
おじゃるさん、乙 馬鹿に限らず、その人が信じられる納得できる、特定の形が重要で、その形を通してじゃないとダメな人がいるね
此処でアドリブが利かない
奴は悟りとは無縁じゃ!渇
>>7-8
意味不明。
自ら触込んでくる自称覚者なるものの99.9%は偽物だ。
覚者になれないのではなくて、
その厳しい道に歩み出してからも更に幾生涯かかるもの。 9.
幾生涯かかるもの、か。
バカは大変であるなー。
AIで簡単に悟れる時代が来ているよ。
今まで、宗教者たちの中に、それこそ、箸にも棒にも掛からぬクズを見てきたが、
宗教アンチの中にも、それに引けを取らないクズがいるなあと 改めて再認識したww
結局は、宗教を信じる、信じないとは無関係な個人の資質の問題なんだよなw
>>11
今一度六道輪廻の意味を考え
てみるべきじゃのう!渇 (‐人‐) おじゃるの仏教は、所詮文字仏教。
国会図書館の蔵書と同じ。
倉庫の奥にしまわれている仏法に、何の意味があろうか? >>ALL
11.
覚者になれないところのバービマンの資質の問題であるよ。
そのバカさぶりを、改めて再認識した、よ。
なんと!
それは残念。
この人は、現代の仏教学者でも、最も好きな学者の一人だったのだが。
(´;ω;`)
17.
奈良康明、の学説批判が出来ないバカが多い。
>>19
エッ、何が??
その奈良氏の学説とは何よ? >>19
バカ扱いするんだから、当然、
その奈良氏の学説とやらを列挙できるんだよな?
鯖が重量動作になっているようなので
とりあえずの
緊急避難として↓ご利用くださいませ
super2ch BBS
http://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ひだ =^・ ・^= まり
書き込み規制対象の人も↑書き込みできるかも?
ちなみに、なんちゃって覚者タソとかの場合は
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
この勝義諦そのものなので、それゆえに
『経典・論書・解説書は邪悪なるものである』という感じなのかしらん?
- これに対して -
おじゃるの場合は ← 無明に依存しているので、それゆえに
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
この勝義諦そのものに戻り帰り
この勝義諦から → 依他起性している世界を観照する
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを集中対象である呼吸に戻して
無明している世界を手放して → 般若の智慧と慈悲の世界に戻る帰る そうか、亡くなられたか・・・
仮にもゼミ生だった身としては、読経の一巻でもせなならんかな・・・
法界体性智の世界からの観照によって
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
般若の智慧と慈悲の
平等性智の世界からの観照によって
実相般若として
如来の大悲・大智によって → 衆生に応じて
衆生が → 如来の大悲・大智を受け入れて
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
聞是観世音菩薩。一心名称
是の観世音菩薩を聞いて一心に名を称せば
観世音菩薩。即時観其音声。皆得解脱
観世音菩薩即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得せしめん
説般若波羅蜜多呪即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経
願わくば、この功徳をもって、あまねく一切に及ぼし
われらと衆生とみなともに、仏道を成ぜんことを
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
奈良時代の弓削道鏡というお坊さんは法相宗(唯識)の坊さんなのに何故密教僧のように加持祈祷が出来たのであろうか?
平安時代の仏教は国家鎮守・護国が目的とされたので真言のみならず天台でも密教一色になっていったというが
道鏡が平安時代に生まれていたら高僧と言われてたんだろうな
女帝ももう誕生しなかったしなw
↓リンクの貼り付けができない
↓間違ってたら スマソ m(_ _)m
道鏡は誰から密教を学んだか?
道鏡が密教を学んだのは、玄昉からだったかも?
玄昉
…唯識教学を中心に
雑密を含む他宗派の教学や広範囲な…
初期密教経典関連…
密教経典の善無畏の「大日経」「蘇悉地経」、金剛智の「金剛頂経」等が含まれていた
…玄昉と空海は母方でつながっており…
…空海は玄昉の影響を受けており…
…密教が当時最先端の仏教であり
いわばトレンディー(豪華絢爛・華やか)な教えであった…
金剛智・善無畏から
→ 不空から金剛頂系、玄超から『大日経』系と『蘇悉地経』系
→ 恵果
→ 空海へ
→ 縁起一代阿闍梨師匠から → おじゃるへ?
道鏡や行基のような法相宗僧侶は五姓格別という思想を持つ差別主義者
『法華経』などの説く一乗は
人々の心に合わせて導く
各人の宗教的能力を考えて導く
方便であるとし
誰もが成仏するわけではない。五性各別
たとえば
仮設としての
無明している世界の中で
無明に依存している
おじゃるには
無明に依存しているゆえに
『解脱すれば仏だ』ということに ← 気づくまでは、気づくことは難しい
青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
無明に依存して → おじゃるは
戯論して慧眼を破れば、仏を見ることはない
29.
バカおじゃる、は西田哲学を理解すれば、少しは利口になれるのだが。
バカでいるほうが楽かいな。
何が無明で、何が解脱なのか、を説明できないバカであることになる。
一二三は、
ケチつけるしか能が無い。
しかも、語彙がバカの繰り返しのみ。
馬鹿の典型。
禅宗史のどれかを買おうと思っていたのに
宮崎と佐々木の対談本が目に入り、つい買ってしまったw
どうも奴らの著作は買ってしまうw
↓これかしらん?
http://www.shinchosha.co.jp/book/603818/
ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す 佐々木閑・宮崎哲弥
どのお経が「正典」なのか?
「梵天勧請」はなぜ決定的瞬間なのか?
釈迦が悟ったのは本当に「十二支縁起」なのか?
「無我」と「輪廻」はなぜ両立するのか?
日本仏教にはなぜ「サンガ」がないのか?
日本の仏教理解における数々の盲点を、二人の仏教者が、
ブッダの教えに立ち返り、根本から問い直す「最強の仏教入門」
↑金銭的に余裕があれば買って読んで見たいと思いまつ
_ _ _
>倉庫の奥にしまわれている仏法に、何の意味があろうか?
おじゃるの場合は
無明に取り憑かれているからこそ
倉庫の奥にしまわれているような
現代語訳で初心者向けの、わかりやすい解説書も読んで見たいでつ m(_ _)m 33.
学説批判のできないバカが読んでも、どうなるのかや。
学説批判をするためにも
現代語訳で初心者向けの、わかりやすい解説書も読んで
その学説を理解した上で
批判した方が良いんジャマイカ?
理解することもなしに
どのように批判するのかや?
たとえば
なんちゃって覚者タソとかは
理解するのが面倒なので、それゆえに
『解説書とかは邪悪なものである』と掴もうとしている感じがする
- これに対して -
縁起一代阿闍梨師匠は
チベット・ニンマ派を受け容れよと、ご教示してたので
おじゃるの場合は
チベット・ニンマ派とかも
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす
瀉瓶のように受け継いでいきたい。という感じでつ
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html >>29
五蘊皆空、一切皆空なのに何故機根には先天的な差があると言えるのか?
前世からのカルマだというのなら過去を悔いて菩薩道を歩んでいけば阿僧祇劫の転生の末には成仏するであろう
仏の慈悲と方便は衆生をもれなく救いとり火宅の外に連れ出して一乗仏道という牛車を与え衆生にカルマを清算させる機会を与えてくれるのである
無性有情の者は悟りを得ることができる無漏種子がないという思想は五蘊皆空からも間違っているし仏の慈悲を侮っているともいえる 上記の本・・・・
まだ最初の方しか読んでいないが・・・
初めから、パーリの訳本紹介やら、位置づけ、評価などから入って
とても初心者向けとは言い難いなあw
だが、基礎を一通りやってるなら、その話題は面白いのが多いw
2017/11/28(火)ザ・ボイス 宮崎哲弥×佐々木閑 「知っているようで知らない仏教の基本・現代における仏教の意義」
9:00ころから・・
う~~ん^^
浅いな^^
>>39 >パーリの訳本紹介やら
とりあえずは
上座部系という雰囲気でつね?
ご教示ありがとうございます スマソ m(_ _)m
_ _ _
>>41 因縁果師匠へ
レスをたくさん使うと
パーピマン殿に怒られるので
現代語訳で初心者向けの、わかりやすい説明で
ひとつのレス内に収めて下さいませ ヨロ m(_ _)m
一応 9:00のところから拝聴させて頂きました
おじゃるの場合は
唯識も。後期大乗密教も。肯定派だけど
上座部系も肯定なので
それゆえに、かなり勉強させて頂きました アリガト m(_ _)m >>42
,ィ升ハ
_,ィ升圭圭} ┼
,ィ升圭圭圭圭圭`ヽ
/レ'´ 。 `マ ハ
|:! _ __ _ マ圭!
+. リ ´ ` }/j} ほほほほほほほほっほほ・・・
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|| :| ´ ̄` | :} \/
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从 _ __ ! |
X 人 乂__フ ノ__ノ
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__ .. -- 「  ̄ j |  ̄ ̄ ー ..
/´ | | | | / 余談ですが、これも一種の宗教みたいなところがあるので書きますと、アミューズメントメディア
総合学院のアニメータ科の内田順久のいうことは絶対聞いてはいけません。
学べるのは本当に一部分の技術だけです。内田は過去にアダルト作品を作っていますが
どれもインポみたいな作品になり失敗しています。内田は潔癖症ではありません、インポです。
その上モテません。
アダルト作品を作ろうと考えてる人は特にこいつの言うことにしたがってはいけません。
インポにされます。
仏教の外野は勿論、仏教好きやマニアも、
当然、今回の大相撲騒動は、世界中のどんな重大ニュースより注目し、
人によっては貴乃花に、人によっては協会に、「人によっては若乃花に」シンクロしてるよな?w
今年も残すところ、あと僅かとなりました。
周りでは、インフルが流行りだしたとの話も聞きます。
皆さま、ご自愛のほどを。
念彼観音力
念彼観音力
薬師如来は、その名の示すとおり医薬を司る仏であり、左手に薬壺を持ち、病気を治す仏さまとして有名です。
薬壺の中には、身体の病、心の病、社会の病など、病という名のものはどんなものでも治してしまう霊薬が入っているのです。
真言は、「オン コロコロ センダマリ マトウギ ソワカ」です。
真言(マントラ)とは、仏に守護を願い、直接呼びかける、謂わば「パワーコール」なのです。
ですから特に訳す必要はありません。その言葉自体に意味があるのです。
薬師如来のまたの名を医王如来ともいい、医薬兼備の仏さまです。
人間にとって一番恐ろしいのが死を招く病気です。
病気には体の病気から心の病気までいろいろあります。
欲が深くて、不正直で、疑い深くて、腹が立ち、不平不満の愚痴ばかり、これらも実は皆病気なのです。
薬師如来は応病与楽の法薬で、苦を抜き楽を与えてくださる抜苦与楽の仏さまです。
サンスクリット語で思い通りにいかないことを「苦」といいます。
その四苦八苦のなかで「病」ほど大きな苦はありません。
どんなに地位名誉や財産があっても病に苦しんでいたら幸せとはとてもいえません。
人類にとって健康は永遠のテーマであり、幸福の担保はまさに健康にあると言っても過言ではありません。
どんな宗教にも多くの御利益が謳われていますが、「無病息災」こそ万人がこぞって求める最大の御利益だといえるでしょう。
139神も仏も名無しさん2017/12/30(土) 15:10:35.54ID:NN8X8OR/
【弾いてみた】『RE:I AM』by Aimer インスト - nicozon
梅一朶
竿の頭に掛けおきて
空手で下る
網の裡かな
欽奉慶新春爽気候
門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもありめでたくもなし
一休宗純
門松は冥土の旅の一里塚
めでたくもありめでたくもなし
悟りには程遠いな・・・^^
愚作
うん^^
動画見たが・・・^^
かわらん^^
愚作
隠居師匠は何を主張したかったのか?わからなかったけど、とりあえず
法(dha a)と存在(bhava)と存在しているもの(sat)
(仮設としての?)
3.恒常性論証?
…今眼の前に見る花瓶は以前に見た花瓶の記憶と照らして推理すると同じものだと判断できる
仮に汚染の有無などの相違や,光線の加減や
見る際の気分の違いで,色調が違っても,それは無視されるか,意識もされない
これがウダヤナの解釈であり,我々の常識でもある
ここに瓶は実体として物体,物品として見られる
ここには眼に一瞬に知覚した色=属性は
一瞬後には違うという繊細極まりない視点がない,常識的な粗雑な見方である
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派
(仮設としての?)
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である
それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相(自性)として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存している? 虚妄の執著・・・
色即是空
理解するものは少ない・・
みんな虚妄の世界に住んでいるからな・・
そこから抜け出すには解脱するしかない・・
つまり・・
まずは・・
無我すなわち我に対する執着を断ち切ることからはじめなければならん
無常を観ずるは即ち是れ空(=人の無我と法の無我〉を観ずるの因縁なり。
色は念々に無常なりと観ずれば即ち空たるを知るがごとし。
「智度論」
「無常→苦→無我といわれるようにこの順序は不動で,苦や無我が無常より先に説
かれることはない。」
まさしくそうやな・・
無常がまず先やな・・
無常を根拠に苦法が存立し,苦法に依って無我法が成立する。
「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 涅槃寂静」
と,読まれているように無常とは,現象が生滅変化していく法の性質をいう
万物が流転すれば,人は現象のうつろいゆく姿を痛感させられる。したがって,
法の無常性を契機として無我の道理も成り立つことになる。
喜怒哀楽の虚妄の世界に住んでいるおまいら・・
理解した?^^
無常の故に直ちに無我が導かれるのではない。凡夫にとっては,
まず無常法によって苦法が導かれる。
凡夫はすべてのものが無常であるという真理を,生来の無知(無明)の故に
自覚することができず,わが身に執着(五執蘊〉し,さらにわが身が頼りと
するところのものを永遠でありたいと望み,執着する。しかし無常の法は,
絶対的であって凡夫の願いを容赦なく打ち砕く。
ここに苦の法(一切皆苦〉が生じて来る。したがって,苦の法は,無常の法に
依存する二次的根拠であるが,凡夫の無常なものに固執するこの習性は,
無始時来生と仏教では説明する。
凡夫すなわちおまえら^^
この世界に生命が誕生したときすでに,自
仏性からの真如縁起からの観照によって
↓
空即是色
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
ついにの頂点に達して
さらに無の世界も超えて
大円鏡智からの → 阿頼耶識を観照して
平等性智からの → 末那識 を観照して
(移り行く世界の様を)ありのまま見つめている
円成実性から → 依他起性を観照する
(色即是空してから?そして → )空即是色?
_ _ _
仮設としての
依他起性している世界の中で
地水火風空識に依存している
色受想行識の仮和合
ということに気づくことなく
一休さんに石を投げつけている?
>>56のリンク先を参照 一休宗純 - Wikipedia
正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去
享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。
臨済宗か・・
臨済宗は坐禅を修行の根本に位置付けながらも、同時に師から受けた公案について考え尽くし、師と問答を繰り返すことで悟りを目指す宗派である。
なるほどね^^
一切衆生は本より涅槃常楽の体にして、法身般若の智身なれども、此(この)五蘊の色心に迷ひ、ゆえに凡夫となり三界に流浪するなり。
この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり
かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。
神智学などにおいての各段階(イニシエーション)は、非常に非常に非常に簡単にいうと
第1段階:魂による肉体の統御
第2段階:魂によるアストラル体の統御
第3段階:魂によるメンタル体の統御(ここで、肉体・アストラル体・メンタル体の低位3諸体が統御される)
第4段階:磔(コーザル体の死)
以下略(人間が肉体を持ったままうけられる最高段階は第5段階とされています)
イエス・キリストは第4段階、臨済宗の栄西で2.2段階だったとされています。
心経にいはく、五蘊みな空なりと照見すれば、一切の苦厄を度すと。
この意は、五蘊本より空にして、なきものなる事をさとりて、
その理をあきらかにてらし見れば、一切もろもろの、生死の苦患厄難を
度脱して、法身般若の体にかなふという意なり。
う~~ん^^
すんばらしい^^
>>82
まあ、何ていうか、止観 の簡易版みたいなw
http://2chb.net/r/psy/1491547539/361
(たとえば
上座部系とかの
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)とかの)
様々な手法で、治療や改善を試み、効果が出たとしても
その後再び、(ダイエットに於けるリバウンドの如く)
うつ病が再発する際の理由は何だと思う?
- この問いに対して -
http://www.onedhamma.com/?p=6455
2018/01/07のPodcast法話
仮設としての
無明に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
『(精神的な状態が?)以前よりも悪化する場合もある』ということであるらしい
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)とかの実践をする場合は
たとえば
パオ・セヤドーとかの師匠のもとで実践しないと
(精神的に?)危険な場合もあるらしい
(これは↑おじゃるの個人的な見解ではないでつ。一応、念の為… スマソ m(_ _)m )
余念を交えず、ただひたすら只管打坐も
只管打坐の師匠のもとで実践した方がよいかも?
仮設としての
無明している世界の中での
頼耶縁起、前提の
我癡・我見・我慢・我愛、前提の
第六意識からの観察は
(精神的な状態が?)悪化する場合がある
- これを対処するために -
仏性そのものからの観照によって
上座部系の場合は
どこかへ飛んでいってしまう心の働きが → 呼吸(を観照すること)に戻る帰る
(仏性そのものからの観照に ← 戻る帰る)
禅宗系の場合は
余念を交えず、ただひたすら只管打坐 『仏性そのもの』
_ _ _
師匠のもとにつくこともなく
一人だけで実践するのは危険な場合もあるらしい スマソ m(_ _)m
佐々木閑氏・・・・彼は大方の見解は賛同できるのだが、無我輪廻論だけはどうもねえww
宮崎氏に激しく突っ込まれていたがw
この無我輪廻論をいう奴は結構いるけど、彼らは決して、「業報論」の話はしないんだよねw
一対一対応の業報(悪因悪果)の話になると、無我と矛盾ししてしまうからw
(決まって、「五蘊によって形成される『我』という仮設されたものは業のエネルギーによるものであって
それが継承されるのあり、それは不定形で、なんちゃらと・・・・」www というだけで、
業の対応関係、即ち、三世に跨る自業自得の話はしないww)
・・・・・仏教が内包する最大の矛盾の一つなんだから、いい加減論理的整合性をつけろとw
仏教学者たちはw
(輪廻否定派にとっては…)
バラモン(ヒンドゥー)
…人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
この段階で↑すでに論理的整合性は破綻している。と思われる
この論理的整合性が破綻している。と思われる
輪廻を
とりあえず仮の前提として
その当時の人々の心の働きに合わせて導いているので
今、現在の輪廻否定派にとって
完璧に納得できるような
論理的整合性による導きは難しいのかも?
縁起一代師匠なら、どのように答えたのでしょうか?
セブン僧侶なら、どのように答えまつか? ヨロ m(_ _)m
ラマナ・マハルシ師は『あるがままに』の中で輪廻転生の問題を以下のように説明している。
質問者 輪廻転生は真実でしょうか。
マハルシ 無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。
本当は輪廻転生など全く存在しない。今も、今までも、そしてこれからも。これが真理である。
ということで、ラマナ・マハルシ師は輪廻転生すら無知(即ち、自身の肉体や心を真我と思いこむこと)に基づいた現象であり、
真我の立場からは存在しないと一刀両断にしている。
以下、魂やサンスカーラとの関連で次のように応じている。
質問者 ・・・魂とはヒンズー教の教義が示すように、何度も何度も生まれ変わる実体なのでしょうか、
それともそれは単なるサンスカーラ、精神的傾向の集合体にすぎないのでしょうか?
マハルシ 真我は永遠に存在し、影響を受けない。
転生する自我はより低い次元、つまり想念の次元に属している。
それは真我実現によって超越されるのである。
>>93
どちらも不正と貧困の生き地獄じゃな。
南無南無 (‐人‐) 91.
輪廻は存在の問題である。
宗教は存在の問題ではない。倫理、生活の問題ではない。
だからして、輪廻を問題とすることは、宗教以外の問題を、問題としていることになる。
他化自在天(たけじざいてん、Skt:Paranirmitavasavarti-d.)
三界における欲界の最高位、且つ六道の天道(天上界)の最下部である、六欲天の第六天。
欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬(はじゅん、Papiyas、パーピマン、パーピヤス)の住処。
六欲天は天界の最下部だが六欲天にも六欲とあるとおり六つの段階があり、最上位が波旬が住む他化自在天、最下部が四天王の住む四天王衆天である。
四天王衆天は須弥山の中腹に位置する。
四天王衆天は俗に下天といわれ、その一昼夜は人間界の五十年に相当する。
敦盛の一節
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり
とは「四天王の住む下天では一昼夜しか過ぎない間に人間界では五十年も過ぎている、下天と比べれば儚い夢のようなものだ」
という意味である。
サンスカーラ
形成力、形成されたもの、有為
意志作用
志向作用
例えば
桜を見て、その「枝を切って苗木を植えてみよう」と思い巡らすこと
大乗仏教(諸行無常)
現象世界の生滅変化している全存在を意味する
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD
人は欲よりなる
欲にしたがって意志を形成し
意志の向かうところにしたがって業を実現する
その業にしたがって、その相応する結果がある
ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて、人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った、三種類の行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して
渇愛(タンハー)が現れて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れて、そして
常見派の場合は
(無明に依存して)
『輪廻している!』という想いが現れ(そして滅し)ている 佐々木と宮崎の対談本・・・・・・まあ、初心者向けの本とは言い難いなw
しかし、仏教の論点、争点などがまとめられていて、初期から部派仏教までの
問題点をざっとおさらい人にはいいかな?
・・・・今は、がらっと変わって禅宗・・・・臨済録から碧巌録までをもう一度ww
>>102
う~~~んw
あれだけでは判断しかねるなあw
確かに一代っぽいがw
密教系の越法罪(おっぽうざい)?
404
…
できる人でも普通は口外しないと思う
特に出家は戒律で禁じられてる
2ちゃんだからたまたま運良く聞けてる、と思った方が正解
_ _ _
↑縁起一代師匠みたいな感じがする?
>>105
般若心経中の真言陀羅尼、大悲心陀羅尼や光明真言や十三仏真言、
そして、梵字写経...の実践については、全然、大丈夫ですよ。
基本的に寺院から唱えるよう推奨されているもののすべては、
当然、憶えて唱えた方がいいに決まっています。
写経はお絵かきではないので、正しい作法に乗っ取って行うならば良い修行になるでしょう。
梵字も問題ないです(尚、書き損じをゴミ箱へポンなどは絶対に慎むこと)。
ただし、
できるだけ間違うことなく行うべきものなのでできれば直接、寺院(僧侶)に足を運んで修得したほうがいい。
でなければ、真言陀羅尼CDを入手して、繰り返し練習をして正しく身につけることです。
特に、大悲心陀羅尼などについては深遠にして霊験あらたかとされているので、
これはより注意すべきものと思われます。うまくできないのならば清く諦めて辞めた方がいいです。
あと理趣経だけはハッキリいって止めといた方がいい。これは後期密教へと繋がる最奥秘教的な経であるので、
元々、素人が唱えるようなものではないからです。
あなたが危惧されるように、
まるですべてがダメかのように喧しく戒める的な風潮が真言宗や天台宗、
特に伝統を背負う本家であるところの高野山真言宗(他に本家を謳うのは東寺)にはあるのですが、
真言宗とて中期密教の伝承諸派に過ぎないのであって、密教の創始などではありません。 もしも、本当にすべてダメだというならば真言宗の始祖である弘法大師/空海その人自身が、
密教の正式な灌頂と三昧耶を受けずに何者かにより虚空蔵求聞持法を教授されて、
これを修習したなどということが自体が歴史的にあり得ないこととなる。
当時の空海ならば、たとえ己れがそのことでもしも地獄に堕ちると聞いたとしても、
それでも本望だといって密教の法を求めて自ら修得したに違いない。
【『摂真実経』下では、「越法罪は五逆罪よりも重く、
地獄に堕して出期(しゅつご)することがない」とまで説いている。】(wikipedia)
こういうのはあくまでも脅しです。
仏教を説かれたブッダ御自身の教えには真言陀羅尼の指導などはもちろんのこと、
それを教えたり唱えただけで地獄に堕ちるなどというものはぜ接待にありませんから。
それはつまり、誰でも安易な気持ちで手を出すことなく、
こうして法が誤って流布されていくことを防ぐための方便として密教が説いたもの。
密教は確かに深遠なものとして挑むべきものであるし、その中には誤解を招くような難解かつ高度な教えもあり、
また伝承されてきた真言陀羅尼の中には、自身や周囲に霊的な危険を及ぶ類のものもあるので、
準備とその資格に達した者でなければ破滅を招くからです。
よくある何でもダメ的な風潮はすべて間違っています。
以下のリンクをよく読んで正しく理解すべきです。
参考:■越三昧耶(越法罪)について
http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/sila/samaya-sila.htm >>107
訂正
×「ぜ接待にありませんから」
○「絶対にありませんから。」 >>106
>あと理趣経だけはハッキリいって止めといた方がいい。これは後期密教へと繋がる最奥秘教的な経であるので、
>元々、素人が唱えるようなものではないからです。
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q13163816383
>『般若理趣経』皆さんも読経してみませんか?
>私自身、よく読みますし、思想・信条の根本となる経典 なんです。お勧めいたします。
>漢音で発音する経文は、かなり心地よく、脳波をα波に導き、ストレス社会を生きる現代人に、仏とチャネリングが可能な、有効的手段でもあります。
と主張している方もいますが、どうなんでしょ? 理趣経ねえw
確か、空海と最澄もそれでもめたよな?w
まあ、左道に繋がる部分があり、きちんと師匠について学ばなければ
誤解が生じやすいことは、その通りなんでしょう?w
空海よりで解釈すると、決して意地悪で貸出拒否ではなくて、誤解を恐れたとw
・・・・・さて、門外漢が読んでいいものか?
どうなんだ? >承狂
>>110
仏教の本質が綺麗事では無い
事を理解しているなら読む巾
じゃな。 南無南無(‐人‐) 公案・祖録を勝手読みするより、はるかにマシかも? >>110 >>109
その人のいうような、
「α波に導く」、「仏とチャネリングが可能」、「トランス状態に入りやすい」といった問題ではなくて、
理趣経というのは師匠から伝授を受けて「理趣経加行」という行を終えてから初めて読誦が許される経典なので、
要するに在家のままでは読誦することは認められていません。
地獄には堕ちませんけれども、理由としてはやはり内容的に後期密教へと流れるタントリズムの教えが説かれていて、
教えが誤解されて流布していくことを避けたいがためでしょう。
また、実際にこの経の読誦というのは、その節回しと息継ぎと音程の使い方がかなり難しいです。
私はお薦めしません。 >>107
リンク訂正:
エーと、すみません。
参考サイトのリンクが変更されていましたので、訂正リンクすると共に一部のみ抜粋しておきます。
この問題に関心を持つ者であるならば、必ずこの解説の全文すべて(相当量あり)に目を通されておくことをお薦めします。
これほど深く熟考されて、的確に解説されたものは他にはなかなかないと思います。
§三昧耶戒(発菩提心戒)
■越三昧耶(越法罪)について
『ところで、密教において厳重に戒められる行為があり、今の真言や天台でもやかましく言われることがあります。
それは、先に示した『大日経疏』に云われる「所有祕密之法無三昧耶者。不應爲説(この秘密之法を、三昧耶なき者には、決して説いてはならない)」
という点。すなわち、三昧耶を受持していない者に対し、密教(の具体的修道法)を決して説いてはならないということです。
これを犯すことを、特に越三昧耶法[おつさんまやほう]あるいは単に越三昧耶、もしくは「有部律」の用語を流用して、越法罪[おっぽうざい]などと
言いいます。---中略---
この越三昧耶あるいは越法罪ということについて、これは近世からのことなのでしょうか、今の密教徒にもひどく拡大解釈して用いる者がしばしば見
られます。
例えば、「三昧耶戒(ひいては灌頂)を受けていない者に対しては、どのような真言であれ一語たりとも教えてはいけない。解説してはいけない」であ
るとか、「それが書かれている経典や論疏・儀軌はもとより、内容を解説している書物をすら見せてはいけない」、あるいは「三昧耶戒を受けていない者
が真言・陀羅尼を唱えることも禁止されている」などと、ただ単純に言う者が比較的多くあるのです。
笑うべし。まったく愚かな謬見であると言わざるを得ません。 もし、であるとするならば、三昧耶戒を受けていない者に『般若心経』を読誦させると越三昧耶だということになるのでしょうか。なんとなれば、空海
の『般若心経秘鍵』によれば、『般若心経』(特に最後の真言)は密教経典であると理解されているためです。まぁ、これは我ながら少々極端な物言いであ
りましょうか。
あるいは、空海自身、唐に渡って正式に密教を受法する以前、吉野の何者かより虚空蔵求聞持法[こくうぞうぐもんじほう]を習い、これを修習してい
ます。このとき空海がすでに三昧耶を、ましてや灌頂を受けていたなどとは到底思えず、まずありえないことです。
また近いところで言えば、偉大なる行跡をのこした大戦前の碩学、長谷宝秀師など、悩める学生時代を送っていた上山春平に、出家だの灌頂を受けさせ
てどうこうだのすることなく求聞持法を授け、行わせています。
(すなわち、虚空蔵求聞持法を引き合いに出して言えば、それは今いわれるような意味での秘法などではなく、灌頂を受けていないものに教えてはいけ
ないなどといったものでもない。)
そもそも、顕教の諸経典にも広く様々に真言・陀羅尼は説かれているので、そのような単純な物言いは全く妥当性を欠いたものです。
そもそも、そのような妥当性や根拠を欠いてではなく、越三昧耶ということを上掲の『大日経疏』ならびに『秘密三昧耶仏戒儀』に正しく従って言った
ならば、現在の日本の密教を標榜する僧尼はほとんどすべて越三昧耶に該当することになるでしょう。』
http://www.horakuji.com/lecture/sila/samaya-sila.htm 般若理趣経
第一章
この正しい法門をただ聞くだけでなく、よく身に受持し、日に日に読誦し、よく心に思惟すれば、
この世において、父母によって生まれたこの身体のままで、すべてのものの片寄らぬ本質を見極め、
金剛のごとく不壊で安らかな境地になるであろう。
第二章
金剛手菩薩よ。もしあなたたちがこの四つの悟りを生み出す法を聞いて、これを読み誦え、身に保ち持っていたならば、
たとえ今ここで数えきれない重い罪をなしたとしても、必ず一切の地獄に墮ちるという報いを超えて、そのままで無上正等覚(さとり)を証することであろう。
以下の章でも経典読誦の功徳で締められているのだが
この功徳は灌頂を受けた僧侶にのみ与えられた特権で在家の信者には無縁なものなのかな?
https://piicats.net/risukyou.htm >>116
>以下の章でも経典読誦の功徳で締められているのだが
>この功徳は灌頂を受けた僧侶にのみ与えられた特権で在家の信者には無縁なものなのかな?
当たり前の話ですが、密教のすべてを在家のままで修得することは不可能です。
では、どこまでが在家のまま可能であり、或いは許されたものであり、
また或いは、できれば身につけた方が得策といえるものなのでしょうか?
これはあくまでも個人的な私の見解にしか過ぎないものなのですが、正直なところを述べさせてもらうと、
そもそも経の読誦によって謳われる功徳や霊験というものについては、私などは話ソコソコの話半分程度のものとして受けています。
経に書かれた意味であるとかその読誦の霊験功徳というものはすべて似たり寄ったりが多くて、
ただ唱えるだけで罪障消滅し、五逆罪も救われるだとか、殆どそんな文句ばかりです。
私はそういう文句などは殆ど信用していません。
要するに、ゴータマの説かれた基本的な真理であるところの縁起と業報の教えに反する在り得ない内容でしょう。
だから、この私は大乗諸経の意味などには最初から殆ど価値をみていないのです。
それと読誦による功徳霊験でいうならば、経文ではなくて真言陀羅尼のほうでしょう。そのためのマントラ(呪文)なのだから 経文というものは、そもそも読誦による功徳霊験などではなくて、そこに書かれてある意味を解すべきものだからです。
なので、
僧侶でなければダメだといってる理趣経の読誦なんかにそこまで拘るよりも、
私的には、伝授してくれる僧侶を見つけて正しく三部被甲の護身法を修得してきたほうが
自身の密教在家修行には役立つのではないかと思います。まっ、これも在家は一切ダメだとする僧侶も多いけれども・・・(苦笑)。
私自身は、密教の世界に身を置いてドンドン深く入っていく...といった考え方は持っていない。
けれども、護身法くらいは身につけないと密教修行としては話にならないという考え方はしています。
ただし、これを授けてくれる密教僧を見つけなければならないことが難点です...。
まずは、五体投地の礼拝と金剛合掌、
そして、光明真言などの各種真言読誦を続けることで、普通は在家修行としては殆ど問題ないものと思う。
ただし、これも考え方一つなので、どうしても理趣経の読誦したいならば自宅で大いにやればいい(寺院でやったら驚かれる...)
追記:
私が護身法の修得を推奨する理由は、
これが密教独自の三密加持の修行形態を見事なまでに一纏めにしたものであり、、
尚且つ、その名の通りあらゆる不浄と魔から身を守る護身の秘法にして、
密教修行における何よりも最初に修するべき作法だからです。
そもそも密教の三密加持は、
真言(マントラ)+手印(ムドラー)+観想(ディヤーナ)の三つが同時に揃わないことには成立しない。
それぞれ単独だけでも非成立であるのに、ましてやただの経文読誦だけでは...。
私は、この三密加持の修行を僧侶だけの専売特許にしようとしているところに敷居の高さをみてしまう。
密教は三密加持によって即身成仏が可能だと謳いつつも、それは信者獲得のための餅絵であって、
実際には在家信者がこれに預かれることはなく、ただひたすら僧侶が行う祈願の加持祈祷にすがるのみというのが実態。
一度、護身法の修得にさえ成功すれば、
あとはこれだけでも三密加持の奥深い世界へと参入することが十分に可能。
護身法
戒、定、慧、解脱、解脱知見の五分法身を磨瑩す
オン・ソワハンバ・シュダサラバタラマ・ソワハンバ・シュドカン
オン・タタギャト・ドハンバヤ・ソワカ
オン・ハンドボ・ドハンバヤ・ソワカ
オン・バゾロ・ドハンバヤ・ソワカ
オン・バザラギニ・ハラチハタヤ・ソワカ
九字護身法
臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば
一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し
この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
准胝観音
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ
・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m
>>120
そそう!
三部被甲の護身法のことです。
九字護身法じゃない...
(これは解き方も知らねばならない)。 >>110
(^。^)俺に聞くなよ、大先生。(笑)
ちなみにだが、お大師様が天台のアレに貸さなかったのは理趣釈経で、理趣経の解説本。
一応間借りなりにもカンジョウ受けた俺でも理趣経の内容はとんでもない話だが、(笑)
大日如来の説法であるこの道場である以上、一切は確かに清浄なんだろうし、平等なんだろう。
内容が得心いかんのは俺にあるガシュウの故なんだろう。
何せ大日如来が直接説いたという設定の密教で常用されてる経典なんだからな。
まぁ、世俗的にはテキエツが誤解され易いんだが、他の段だって相当随分なことが書いてある経典だが、確かな帰依という芯さえあれば、執着に引きずられないだろう。
師弟というマンツーマンのシステムもあるから、(あったから、)こういうかなり踏み込んだ経典を常用とすることができたってことじゃないかな。
ちなみに、当時から在家でもケギョウしてカンジョウ受けられてたはず。
師が許せば。
密教、というか大乗自体が在家の為の運動だからね。
こういう密教という構造上必要なステップを無視して華厳的な視点のまま押し入ろうとしたから、「ちゃんと手順踏めよ」って返事されたんだと思うよ。
あと、乙秋刀魚や会に関しては、こういうステップを無視して咒法的なことが拡散しないようにって話がメインだろうから、経典読むだけなら問題ないと思う。
素人にディープな内容を垂れ流すのはアウトだと思うけど、現代だはマトモな師弟関係なんて出来ないからギリギリセーフ?(笑)
(^。^)まぁ、俺の勝手な妄想だから教学的なことは現職の連中にでも聞いてみてね?(笑) まあ、なんというかw
心底、其の経の教えに感銘し、読経せずにはいられない・・・・・というのならば、わかるがw
それを読誦することによる見返り・・・・功徳を積んだとか、それによってなんかいいことがあるw
みたいなことを期待してるんだったら、初めから読誦なんてやめた方が良いと思うが?ww
(まあ、一遍は生涯で一度でも念仏唱えたら極楽行き間違いなし・・なんて言ってるがw)
密教は師承が基本だし、マジで密教やるなら、理趣経読んでる暇に師匠探した方がいいかも?
そんなじゃなくて、ただ理趣経が好きで毎日、読誦したいんだああ~~~
というだけなら、OKだそうですぜw
まあ、オレはマントラの効力も全く信じていないがwww
ある坊主に教えられた ノウマクサンマンダボダナンバク ・・・・・
何故か、これだけはもう、二十年になるかww
>>124
>それを読誦することによる見返り・・・・功徳を積んだとか、それによってなんかいいことがあるw
みたいなことを期待してるんだったら、初めから読誦なんてやめた方が良いと思うが?ww
末法思想の発生源でしょう。
空海以降の悟りの仏教よりも呪術現世利益オンリーの仏教、大寺院の貴族皇族の自動的トップ就任など・・・。
そういう歴史が日本で生まれたのでしょう。
一応、現在の真言密教の坊主によると、
煩悩の癒しが重要なので、そういう功徳方式でしょうな。
いい話だろ笑。バービー、
日本仏教に詳しいだろお?笑。 >>124
読経はなかなかいいもんだぞ笑。
8年ぐらい昔に、真言系各宗派の三昧狙って般若心経ブチかましていたな笑、
たまに、きまぐれに神社で神前読経、1,2回ブチかましたことがある。神社で三昧狙ってな笑。 経典読誦の功徳は経典に関心を持たせるための方便でそ
薬の効能書きを読んで唱えて
効果が有るなら誰も苦労はせ
んわな。
南無南無 (‐人‐)
けど、
何も読まずに学ばずに、到達できるなら、
学校、義務教育すら要らんわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
つか、
そういう人材もいるかもしれん、という話でしかないなら、
1000人中1人でしかないなら、
あと999人の誤解や勘違いを防止する爲に、効能書きの熟読は必要だよw
禅が不立文字なら、
語録祖録を残し続けている弟子たちは愚か者の極みで、
その愚か者に指導されていながら、あれこれ言ってる誰かさんも、また愚か、とw
>>130
知識をいくら積み重ねても
苦痛からは解放されんぞ。
南無南無 (‐人‐) >>132
たとえ、君が999人でなくても、
君以外の999人の爲に、効能書きは必要なの。
もし、それがわからないなら、児孫と称することも許されんよw つーか、
>>132のような人物が出て来ないように(出てきた時のために(リトマス試験紙の如く))、
効能書き(≒三蔵、祖録、諸疏)が存在するわけでね・・・w ┐(´ー`)┌ 居士禅・在家禅を、許容し後押しした明治近代禅の罪は
結構でかいかもしれんな・・・
もっとも、現代日本仏教(近代禅宗)自体が、在家仏教(在家禅)であると指摘されたらそれまでだが・・・www
>>134
縁無き衆生は救い難し。
南無南無 (‐人‐) そうか、仕様変わったんだっけか
自身が、その考えに至った経緯の中で、
一度も祖録や禅語に触れていないなら、多少の説得力も生じ得るだろうが・・・
誰しも、何かしらを読み齧ってる筈でね・・・
禅は危険だよ
0013 junkie-ooyama 2017/12/29 10:39:50
俺のオキニは美人だけど愛想よくサービスも良い
ディープキスもしてくれるし乳舐めもクンニもさせてくれるけど
全ての客にそうさせてるんだろうなと思うと少し萎えてきた
こんなんなってまうでw
鶯谷で立ちんぼ買ってるらしいよw
0160 じゃんきーおおやま 2018/01/23 21:16:45
中出し二発にアナル一発
立ちんぼ遊びはやめれませんな。
返信 ID:ZqR4QHVa0(1/2)
0162 じゃんきーおおやま 2018/01/23 23:05:03
坐禅して
立ちんぼに中出しして
俺の仏教は完成したのさ。
でおーや
コピペでまた荒らす気かいw
返信 ID:ZqR4QHVa0(2/2)
>>124
>(まあ、一遍は生涯で一度でも念仏唱えたら極楽行き間違いなし・・なんて言ってるがw)
少し違う
南無阿弥陀仏には、臨終もなく、平生もなし。
三世常恒の法なり。
出る息いる息をまたがる故に、当体の一念を臨終とさだむるなり。
しかれば念々臨終なり、念々往生なり。故に「回心念々生安楽」と釈せり。
おほよそ仏法は、当体の一念の外には談ぜざるなり。
三世すなはち一念なり。
(一遍聖人語録) ジャンキー人気者過ぎだろ笑。
俺の知らない処で成長しているんだなあ笑。
ジャンキー君も気の毒だな。成りすまし攻撃には、さすがに同情するよ、
人気あり過ぎなんだろうな、きっと・・・・・。
修行の内と思って、頑張ってね・・・・。♪
>>144
2013年・・・ざっと5年前か?w
あの頃は、よく色んな奴に噛みついてたww 余談ですが、私は今までに四八方の宗派や会社バラバラの霊媒師や占い師にあたってきましたが、そ
の人々は邪神不動明王やシヴァ、阿含宗や桐山に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは
善人で不動明王(シヴァ)などが実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。善人のほうの邪魔他をしている。
よく東洋系の不動や阿含宗や桐山の術を見破るものを同伴させること。
その洗脳をさっさとどけ、自主的によくよく弁償してくること。そして不動や阿含宗や桐山こそいみきらい何万年分
も弁償とって抹消する対象とすること。
さもなくば強制的に3倍~7倍ぐらい弁償を取られてひどい目にあい抹消されるでしょう。
>>147 ww
流石に変換ミスでしょ?w
道中⇒動中 曖昧検索なのか両字とも拾っているが、42万件はなかなかの数字w
閑話
あの不動明王の姿のモデルは一体何なのか?
・・・・・ある作家によると、
「アーリア人が北西インドから侵入し、土着民族であるドラヴィダ人を支配した。
密教は元々、インドの土着信仰、呪術がもとになって出来たものである。
そして、当時、支配者が他方に何かしらの連絡をする必要が出来たとき、使者を派遣する。
(電話などなかったしねw)
その使者に選ばれたのが、ドラヴィダ人の少年だったらしい。若くて体力があり、
敵や害獣、毒蛇などにも怯まない勇敢な少年が選ばれたらしい。
不動明王のもつ剣は、それらを倒すためのもので、山を登り、谷に降りるために必要な
ロープを肩にかける。
そして、あの独特なヘアースタイル(髪を小さく、いくつにも束ねた形)は、
当時のドラヴィダ人の風俗らしい。」
・・・・さて、真相は?ww