https://digital.asahi.com/articles/DA3S14626229.html
参謀志した冷徹なリアリスト党内の批判はねのけ他党と協力
世間に流布する「令和おじさん」のイメージとは裏腹に、永田町では「けんか屋」「冷徹なリアリスト」といった異名を持つ菅義偉。政治家として公言してきた目標は、首相ではなくその参謀役だった。「オレは、官房長官か幹事長だよな」。かねて自らの政治家像をそう語っていた。
菅は1996年に衆院議員に初当選すると、派閥の領袖(りょうしゅう)や時の首相にもあらがい、しばしばあつれきを生んだ。当選1回で迎えた98年の総裁選で、いまも師と仰ぐ元官房長官の故・梶山静六とともに小渕派(現竹下派)を飛び出した。派閥を率いる故・小渕恵三が名乗りを上げたのに、梶山の擁立に動いたからだ。
梶山が総裁選で敗れた後、菅は元幹事長の故・加藤紘一が率いる派閥に身を寄せ、2000年に当時の首相・森喜朗に退陣を求める「加藤の乱」に加わった。乱が不発に終わると、菅は「しらーって感じですよ。首相の首を取るというから、命懸けでやったのに」とぼやき、加藤と距離を置いた。政争で負けも込んだが存在感は高まった。
「利があり」とみれば、菅は融通無碍(むげ)に党外の勢力とも手を握った。その典型が与党・公明党だ。
15年、消費増税に例外を設ける軽減税率をめぐる混乱で、官房長官だった菅は党執行部の頭越しに調整に介入した。10%へ税率を上げる際の低所得者対策として公明は食料品を8%にとどめるよう主張したが、自民や財務省は渋っていた。
菅は公明の支持母体・創価学会副会長の佐藤浩から「軽減税率の導入なしに選挙は協力できない」と告げられた。佐藤とは国会議員に当選後、菅の選挙区の神奈川で活動していた縁で知己を得た。官房長官に就いてからは政権中枢にいる自身の力と、佐藤が持つ選挙での集票力とを互いに頼んで足場を強化していった。
菅は首相の安倍晋三を説き伏せ、自民党税調会長を交代させてまで公明の言い値で決着させた。その強引な手法は党内の反発も招いた。菅は初当選時に「特定の宗教団体に支配された党に、日本の将来を託すわけにはいかない」と学会批判を展開していたが、その過去も意に介さない。
その手は野党勢力にも伸びる。07年の大阪市長選の際、党選挙対策副委員長だった菅は弁護士の橋下徹の擁立を頼まれ、人間関係をつくった。この時は出馬を見送った橋下だが、翌年の大阪府知事で初当選。菅は12年の総裁選で橋下と安倍を結びつけ、安倍への期待を高めようとした。
大阪都構想などで今も維新と連携する菅。大阪選出の自民議員は「地元の支援者は菅さんへの批判だらけだ」と嘆くが、菅に気にする様子はうかがえない。菅の人脈は、利害で結ばれた「戦略的互恵関係」とも評される。
官房長官としての菅の在任記録は、16年7月に福田康夫を抜いて歴代最長を記録した。選挙での公認権や資金を握る党ナンバー2の幹事長ポストへの興味も、時に安倍に対して口にした。ただ、安倍は番頭役を動かすことを嫌った。「官房長官のまま選挙をやればいいじゃないの」とかわし、首を縦に振らなかった。その安倍の傍らで、菅は権勢を振るい続けた。
■「強くなりたい」、武闘派に心酔
菅の政治家としての核は、どう育まれたのか。
義偉(よしひで)という名は、戦前、旧満州の南満州鉄道(満鉄)で働いていた父の故・和三郎に、当時の上司が「息子ができた時のために」と送ったという。「この名をつければ出世する」。そんな意味が込められていた。帰国後、秋田で生まれた長男に和三郎はその名をつけた。
生まれ育ったのは、現在の湯沢市の雪深い山間部だ。和三郎はこの地域でイチゴ栽培の先駆者だった。出荷時期をずらすことで、市場価値を高めることに成功した。しかし、和三郎の「改革」に農協は異を唱えた。コメからの転換に反対された和三郎は、農協と別にイチゴ栽培の組合を立ち上げ事業を軌道に乗せた。
「あれこそ攻めの農業だった」。菅は父の取り組みを振り返る。「古いもの」や「慣例」と対峙(たいじ)する姿勢は、父親譲りだった。
和三郎は地元で町議となり、名士的な存在になった。ただ、青年だった菅は地元で農家を継ぐ人生を嫌った。高校卒業後に家出同然で上京。大学時代は「強くなりたい」と空手に打ち込み、司法試験にも挑もうとしたが、1年で諦めたという。
卒業後は「世の中を動かしているのは政治ではないか」と考え、横浜で衆院議員の故・小此木彦三郎の秘書を経て市議に。1996年に47歳で国政進出した。
そして菅は、永田町で政治の「父」に出会う。小此木と初当選同期で親しい、「竹下派七奉行」の梶山だった。武闘派で、国会対策にたけ、官房長官として官邸主導で省庁の幹部人事を仕切った。