約700年の歴史がある「小笠原流礼法」初の女性宗家・小笠原敬承斎氏が、男女の違いを歴史的な見地から考えます――。
小笠原流礼法は、室町時代の武家社会において体系化が進められ、確立しましたが、身分制度が厳しい時代のなかでも、規律一辺倒ではなく、融通性を重んじ、状況に応じた行動が大切とされました。
その教えは、小笠原流礼法の伝書に、「時宜によるべし」という一文がたびたび記されていることからも読み取れます。
「時宜によるべし」とは、時・場所・状況に応じた行動が重要である、ということです。時宜に応じた行動をとるには、作法の理由がわかっていないとできません。理由がわかると、的確な判断をもとにした自然な行動をとることが可能になるのです。
たとえば、男性と女性に関して、清浄と不浄に関する考え方がありました。
皆様もご存じの通り、天照大神は女性の神です。推古天皇、皇極天皇など、女性天皇はこれまでに8名と、古来、女性の社会的立場は高いものでした。
女人不成仏説(女性は成仏できないという説)や、女性は地獄の使いであるなどの考え方が、仏教とともに伝えられましたが、一般に広くいわれていたわけではありません。女性は神に近い存在ともされていました。
平安時代までの結婚の形態は、男性が気に入った女性の家に通い、同居していたことからも、女性の立場が低くなかったことが推測できます。
しかし、疫病や天災などが続き、人々はそれらの理由を穢れにあるとしはじめました。穢れは死、出産、血液にあるとされ、女性は、出産や月経の期間は、別の家で暮らすほどでした。つまり、そうした期間にある女性は、穢れていると捉えられていたわけです。
さらに鎌倉時代以降、社会における男性の地位が高まり、室町時代からは、ますます女性の地位は低くなります。
小笠原流礼法の古文書にも、出産のための産屋が設けられていたことや、出産時には、すでに平安時代から行われていた鳴弦の儀(矢は用いることなく弦だけを引いて鳴らし、邪気を祓う儀式)がなされていたことが記されており、出産が穢れに通じていたことが推察できます。
日本においては、男尊女卑ということばがあるように、特に武士が活躍した時代には、男性上位に考えられていた風習があり、現代においても、特に年配の方のなかにはこの名残があることも否めません。
なぜかというと、女性が武士になることはできず、肉体的な面でも、男性のほうが女性よりも体力があるため、男性の社会的地位が上だったからです。
お酒に関する作法が説かれた小笠原流の伝書に、最も上位の人からお酒を請けるときには、《いかにも慎みていただき(盃を)さて下を呑み候て さて請くべし》とあります。
盃をいかにも丁重にいただく動作を行った後、下(相手の飲み残したもの)に口をつける動作をしてから、盃にお酒が注がれるという流れがありました。
清浄感を重んじる日本人が、相手の飲み残したものに口をつけるというのは、当時の衛生常識からしても決して気持ちのよいものではなかったはずですが、同じ盃でお酒を飲み、同じ茶碗でお茶を飲み、同じ釜で炊いたご飯をいただく連帯感のなかに、信頼の証を認め合っていたことが伝わってきます。
しかし、女性に対する作法は異なり、《女の盃に口をつけて呑むべからず。唯いただきてばかり呑むべし》と、女性が口をつけたものを飲むことはありませんでした。
とはいえ、江戸時代に比べて、室町時代のほうが、女性を重んじた考え方が根底にあったようにも思います。それを感じさせる伝書の箇所は次の通りです。
《女はいかにも こころやわらかにあるべし。そもそも日本国は和国とて女の治め侍るべき国なり》
と、日本の歴史について、女性上位や女性が治めるべき国であると説明したうえで、
《されば男女によるべからず。こころうかうかしからず。正直にたよりたしかならん人 肝要たるべしと見えたり》
と書かれています。
続く
以下ソース
https://smart-flash.jp/lifemoney/61087
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小笠原流礼法は、室町時代の武家社会において体系化が進められ、確立しましたが、身分制度が厳しい時代のなかでも、規律一辺倒ではなく、融通性を重んじ、状況に応じた行動が大切とされました。
その教えは、小笠原流礼法の伝書に、「時宜によるべし」という一文がたびたび記されていることからも読み取れます。
「時宜によるべし」とは、時・場所・状況に応じた行動が重要である、ということです。時宜に応じた行動をとるには、作法の理由がわかっていないとできません。理由がわかると、的確な判断をもとにした自然な行動をとることが可能になるのです。
たとえば、男性と女性に関して、清浄と不浄に関する考え方がありました。
皆様もご存じの通り、天照大神は女性の神です。推古天皇、皇極天皇など、女性天皇はこれまでに8名と、古来、女性の社会的立場は高いものでした。
女人不成仏説(女性は成仏できないという説)や、女性は地獄の使いであるなどの考え方が、仏教とともに伝えられましたが、一般に広くいわれていたわけではありません。女性は神に近い存在ともされていました。
平安時代までの結婚の形態は、男性が気に入った女性の家に通い、同居していたことからも、女性の立場が低くなかったことが推測できます。
しかし、疫病や天災などが続き、人々はそれらの理由を穢れにあるとしはじめました。穢れは死、出産、血液にあるとされ、女性は、出産や月経の期間は、別の家で暮らすほどでした。つまり、そうした期間にある女性は、穢れていると捉えられていたわけです。
さらに鎌倉時代以降、社会における男性の地位が高まり、室町時代からは、ますます女性の地位は低くなります。
小笠原流礼法の古文書にも、出産のための産屋が設けられていたことや、出産時には、すでに平安時代から行われていた鳴弦の儀(矢は用いることなく弦だけを引いて鳴らし、邪気を祓う儀式)がなされていたことが記されており、出産が穢れに通じていたことが推察できます。
日本においては、男尊女卑ということばがあるように、特に武士が活躍した時代には、男性上位に考えられていた風習があり、現代においても、特に年配の方のなかにはこの名残があることも否めません。
なぜかというと、女性が武士になることはできず、肉体的な面でも、男性のほうが女性よりも体力があるため、男性の社会的地位が上だったからです。
お酒に関する作法が説かれた小笠原流の伝書に、最も上位の人からお酒を請けるときには、《いかにも慎みていただき(盃を)さて下を呑み候て さて請くべし》とあります。
盃をいかにも丁重にいただく動作を行った後、下(相手の飲み残したもの)に口をつける動作をしてから、盃にお酒が注がれるという流れがありました。
清浄感を重んじる日本人が、相手の飲み残したものに口をつけるというのは、当時の衛生常識からしても決して気持ちのよいものではなかったはずですが、同じ盃でお酒を飲み、同じ茶碗でお茶を飲み、同じ釜で炊いたご飯をいただく連帯感のなかに、信頼の証を認め合っていたことが伝わってきます。
しかし、女性に対する作法は異なり、《女の盃に口をつけて呑むべからず。唯いただきてばかり呑むべし》と、女性が口をつけたものを飲むことはありませんでした。
とはいえ、江戸時代に比べて、室町時代のほうが、女性を重んじた考え方が根底にあったようにも思います。それを感じさせる伝書の箇所は次の通りです。
《女はいかにも こころやわらかにあるべし。そもそも日本国は和国とて女の治め侍るべき国なり》
と、日本の歴史について、女性上位や女性が治めるべき国であると説明したうえで、
《されば男女によるべからず。こころうかうかしからず。正直にたよりたしかならん人 肝要たるべしと見えたり》
と書かれています。
続く
以下ソース
https://smart-flash.jp/lifemoney/61087
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