科学研究費助成事業・研究成果報告書
日本各地の縄文系対弥生系人口比率と日本人成立過程 (東京大学 2014 )
【稲作技術を携えた渡来系弥生人は、朝鮮半島を経て北九州に入って来た】
>日本人は先住の縄文人(狩猟採集民)と後入り渡来系弥生人(水田稲作民)の混血により成立した。
渡来系弥生人は、今から3千~2千5百年前、大陸から朝鮮半島を経て、北九州近辺に入って来た。
大陸の先進文化(稲作技術や金属器など)を携えていた。
やがて彼らは縄文人を圧倒するようになり、更に日本列島上を東に進んで、3世紀末に畿内で大和朝廷を打ち立てた。
【韓国人の半分以上は、弥生系の日本人と同じハプログループ持つ人たちである】
>ソウルで測定された韓国人におけるハプログループ出現頻度分布には、弥生系日本人におけるハプログループ出現頻度分布を特徴付ける成分を多く含むことが分かった。
これより、韓国人の半分以上の人たちは、弥生系日本人と同じ mtDNA ハプログループ出現頻度分布を持つ人たちであることが判った。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-21570243/21570243seika.pdf >弥生時代中期で渡来人と関連する,韓国南端の勒島遺跡から 117 号人骨と命名された
15 ~ 20 歳ころの若年女性人骨においても結核と診断される人骨資料が出土している。
さらに同人骨の出土年代や勒島の地理的あるいは考古学的意味から見ても,わが国への渡来人による結核の流入を考えるうえで極めて興味深い症例となってる.
縄文時代の人骨資料には現在のところ確実な結核の例は見つかっていない.このことは極めて重要な意味を持っている.
質量ともに豊富な縄文時代人骨からは,特徴ある明確な骨病変を形成する骨結核を示す個体が皆無であるということは,
本症が強い伝染力を持つ感染症であることを考慮にいれるならば,縄文時代には結核の存在を積極的に支持する理由は見当たらないことになる.
確実な結核の古病理学的症例の集積から見て,わが国における結核の起原については弥生時代であり,
その後古墳時代にかけて大規模な流行が存在したとみて差しつかえないであろう.
縄文時代晩期の大幅な人口減少,九州北部や山口県を中心とした弥生時代における渡米人の本格的移入,
そして稲作農耕社会の拡大と定住化および人口密度の著しい上昇,
弥生時代に生じた大規模なそして波動的な朝鮮半島からの多量の渡来人に伴って結核菌の伝播がなされ,やがて爆発的流行を迎えたことはほぼ確実である.
このとき最も大きなダメージを受けたのは恐らく結核菌に対して何ら免疫力を持たなかった,
そしてそれまでの狩猟採集生活から米食生活へと(栄養面での)転換を余儀なくされていた在来の縄文時代人系の人々ではなかったかと推定される.
これは未開農村社会における結核移入の疫学的事実が証明している.
恐らく他の大規模な流行と多量死をもたらす麻疹や天然痘などの感染症同様,免疫力の乏しかった彼等にとって結核は急性であり,
小児型の経過を示す全身重症型の病型が多かったであろうし,結核による死亡率もまた非常に高かったと考えられる.
鈴木 隆雄(2015)
老年学、古病理学専攻 国立長寿医療研究センター研究所長、桜美林大学大学院老年学教授
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjrmc/52/2/52_121/_pdf 「日本に大きな影響を与えた朝鮮半島の水田稲作・弥生時代の歴史:第1章~水田稲作の始まり~前編」
(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館 教授/総合研究大学院大学 教授) 収録日:2019/06/04
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に位置するウルサン市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
これらは一つ一つの区画が数平米と小さい「小区画水田」と呼ばれるものです。谷筋を流れる水を使って、水田稲作を行っていたことが分かります。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 「飛騨高地住民の DNA 解析より日本人成立過程がわかる」(日本人類学会) 日時 2018年11月 場所 東京大学
>縄文人が狩猟採集生活を送っていたところに、紀元前 10 世紀、渡来系弥生人が大陸から朝鮮半島を経て北九州近辺に入って来た。
彼らは大陸の先進文化(金属器、弥生式土器、水田稲作など)を携えていた。戦争の技術と習慣もである。
これらにより彼らは次第に縄文人を圧倒するようになり、さらに列島上を東に進出、
3世紀末に畿内で大和朝廷を樹立し、日本人の中枢を形成するようになって行った。
http://anthropology.jp/assets/files/20181117_Iden.pdf >東アジアの五集団は、それぞれの集団間の遺伝距離が非常に小さい。特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。
この分析でも、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなったのである。
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した。東アジア人のクラスターでは、アイヌが最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。
続いて琉球人が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
(国立遺伝学研究所HP)
https://www.nig.ac.jp/museum/evolution-x/02_e.html >日本人の起源については諸説あるが,約 30,000 年前の後期旧石器時代に日本列島へと移住してきた縄文人と,
紀元前 1,000 年から西暦 300 年頃に朝鮮半島から日本列島へと移住してきた弥生人の祖先が混血して,
現在の日本人集団の起源になったとする“混合モデル”が有力であると考えられている。
本稿では,日本人集団の混合的起源を支持する遺伝的知見について概説するとともに,
HLA 遺伝子多型から日本人の祖先集団を推測する遺伝的痕跡の探索について,最新の研究を紹介したい。
>日本人本土集団の HLA ハプロタイプの大部分は朝鮮集団にも存在することが報告されている。
これは弥生人の祖先集団が朝鮮半島から移住してきたであろうことを考えれば,自然な現象であると思われる。
>ハプロタイプ(A*24:02-C*12:02-B*52:01-DRB1*15:02-DPB1*09:01およびA*33:03-C*14:03-B*44:03-DRB1*13:02-DPB1*04:01)は,
日本と朝鮮だけに存在することから,弥生時代に朝鮮半島からもたらされ,日本本土で急速に増加したものと推察される。
>水稲耕作文化を伝えた朝鮮半島からの移住民はコミュニティにおいて優位性を持ち,
その結果として日本人集団の中で朝鮮半島からの移住民の子孫が急速に増加したとも考えられる。
「HLA 遺伝子多型からみた日本人集団の混合的起源」(国立遺伝学研究所/東海大学医学部 2014)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mhc/21/1/21_37/_pdf >朝鮮半島東南部の新石器時代の遺跡から,キビやアワが土器圧痕として発見された。
この朝鮮半島南部で穀物栽培が定着し始めたころは,搬入土器や類似土器の分布状況から,
朝鮮半島南部と西北九州地方の交流が最も盛んであった頃の一つと考えられている。
これは土器の類似性が単なる情報の伝達による模倣の結果であり,土器を保持した人や集団の移動ではなかったという説に符合する。
>土器文化の上から両地域の交流が盛んであったと考えられているもう一つの時期が,縄文時代前期前葉である。交流のベクトルに関しては朝鮮半島から北部九州へと向いたものと評価している。
「韓国櫛文土器文化の土器圧痕と初期農耕」(国立歴史民俗博物館 2014)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/187005.pdf 現代人のゲノムから過去を知る
~Y染色体の遺伝子系図解析からわかった縄文時代晩期から弥生時代にかけておきた急激な人口減少~(東京大学 2019年)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2019/6431/
>現代日本人の成立過程に関しては諸説あるが、日本列島にいた縄文人と大陸から渡ってきた弥生人が混血したとする混血説が広く受け入れられている。
韓国人・中国人を含む他の東アジア人を併せて解析した結果、日本人で35%の頻度でみられる系統1は、
他の東アジア人集団ではほとんど観察されないことが示された(図2)。
渡来系弥生人の主な母体である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体が観察されなかったことも踏まえると、
系統1のY染色体は縄文人に由来すると結論できる。
(図2)
【大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達した】
本研究の結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が本土人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。
大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、
近畿地方や四国地方の人々に渡来人の遺伝的構成成分がより多く残っていることは、日本列島における縄文人と渡来人の混血過程を考えるうえで興味深い。
東京大学大学院・広報室 (2020/10/14)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/7056/ 弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。(佐藤 洋一郎)
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
──稲作というと水田と思いがちですが・・・
佐藤 現在の日本の稲作は水中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、
じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。
──何か発見があったのですか?
佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。
──なるほど。それだけの農耕ができるのであれば、稲作があって当然という気がしますね。
佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
私は、ひょっとすると縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。
縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?
佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。 「遺伝子から続々解明される縄文人の起源~高精度縄文人ゲノム~」
>国立科学博物館、情報・システム研究機構 国立遺伝学研究所、東京大学、金沢大学、山梨大学、札幌医科大学、東海大学のからなる共同研究グループは、
約3,800年前の縄文人の全ゲノムを高精度で解読することで、縄文人の起源と成立の詳細を明らかにすることに挑みました。
縄文人はアメリカ先住民を含む東ユーラシア集団の中で最も古い時代に分岐したことがわかりました。
その一方で、縄文人はウルチ、韓国人、台湾先住民、オーストロネシア系フィリピン人と遺伝的に近かったのです。このことは形成プロセスを知る重要な手掛かりになります。
今後、本研究で明らかになった高精度の縄文人ゲノムは、
縄文人と弥生人の混血によって形成されたと考えられる現代日本人の成り立ちの詳細を理解するうえで重要な情報を提供することが期待されます。
https://www.brh.co.jp/publication/journal/087/research/1.html >越高遺跡は、対馬西北部に位置し、海岸部から細い谷部にかけて立地する縄文時代早期末~前期(今から約7,100年前~6,400年前)の遺跡である。
最大の特徴は、出土する土器の大半が、朝鮮半島新石器時代早期の隆起文土器で占められる点にある。
また、海岸部では、石組み炉が見つかっているが、類例は同時期の日本列島にはなく、韓国釜山市の東三洞遺跡や凡方貝塚で確認されている。
これらの点から、新石器時代に朝鮮半島から渡来した人々が居住した遺跡であることが分かる。
一方、土器に使われた粘土に対馬産のものが含まれることや、石器に使われた黒曜石の産地が、西北九州産の石材のみで構成されることから、
これらの材料については、九州の縄文人との交流の中で入手していたと推測できる。
このように、越高遺跡は、縄文時代早期末~前期に朝鮮半島から渡来した人々が、九州の縄文人と交流しながら物資を入手し、
生活することで形成された遺跡と考えることができ、縄文時代の日韓交流の在りようを示す遺跡として高く評価できる。
(長崎県HP)
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/790 >ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
新石器時代の長江中・下流域の栽培稲は熱帯型ジャポニカであるが、温帯型ジャポニカは山東半島以北の膠東半島、遼東半島、朝鮮半島で生まれた可能性が高い。
夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
板付Ⅰ式からⅡ a 式の福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、夜臼Ⅱ式以降に洛東江下流域から福岡平野へ流入したものであ
る可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
>前 5世紀頃になると,九州北部沿岸地域において,稲作関連の技術面に大転換が起こる。水稲を収穫する朝鮮半島南部と基本的に共通する新しい利器類の出現である。
これらの変化を引き起こしたのが前 7~6 世紀に朝鮮半島南部で始まった本格的な水稲農耕と,環壕集落を指標とする農耕社会の成立である。
このような水稲農耕文化を背景にもつ朝鮮半島中・南部の人々が,血縁集団を単位として九州北部沿岸地域の下流域に入り,
在来民との相互交流を開始して,ともに農耕集落を造り,水田を拓いたことが,このような大転換の契機になったと考えている。
(国立歴史民俗博物館)
朝鮮南部は倭人が住んでたわけだが
お前が挙げてるのはただの倭人の歴史だよ
朝鮮系日本語とかいうカテゴリが英語のwikiにあるから読んどけ
要するに南部では昔原始的な日本語が話されていたのだ
だから半島に日本人の祖がいたってことでしょ
大体百済で話されていた言葉はいまだに謎なのだ。日本語に近かったという説もある
朝鮮人が来たのはそのあと
科学研究費助成事業・研究成果報告書
日本各地の縄文系対弥生系人口比率と日本人成立過程 (東京大学 2014 )
>日本人は先住の縄文人(狩猟採集民)と後入り渡来系弥生人(水田稲作民)の混血により成立した。
渡来系弥生人は、今から3千~2千5百年前、大陸から朝鮮半島を経て、北九州近辺に入って来た。
大陸の先進文化(稲作技術や金属器など)を携えていた。
やがて彼らは縄文人を圧倒するようになり、更に日本列島上を東に進んで、3世紀末に畿内で大和朝廷を打ち立てた。
>ソウルで測定された韓国人におけるハプログループ出現頻度分布には、弥生系日本人におけるハプログループ出現頻度分布を特徴付ける成分を多く含むことが分かった。
これより、韓国人の半分以上の人たちは、弥生系日本人と同じ mtDNA ハプログループ出現頻度分布を持つ人たちであることが判った。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-21570243/21570243seika.pdf それは一昔前の定説だね
黒潮海上ルートで弥生人が来たとしたら、九州→半島というルートもあり得るし
実際稲の遺構から考えてその可能性もある
>ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
新石器時代の長江中・下流域の栽培稲は熱帯型ジャポニカであるが、温帯型ジャポニカは山東半島以北の膠東半島、遼東半島、朝鮮半島で生まれた可能性が高い。
夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
板付Ⅰ式からⅡ a 式の福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、夜臼Ⅱ式以降に洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
>前 5世紀頃になると,九州北部沿岸地域において,稲作関連の技術面に大転換が起こる。水稲を収穫する朝鮮半島南部と基本的に共通する新しい利器類の出現である。
これらの変化を引き起こしたのが前 7~6 世紀に朝鮮半島南部で始まった本格的な水稲農耕と,環壕集落を指標とする農耕社会の成立である。
このような水稲農耕文化を背景にもつ朝鮮半島中・南部の人々が,血縁集団を単位として九州北部沿岸地域の下流域に入り,
在来民との相互交流を開始して,ともに農耕集落を造り,水田を拓いたことが,このような大転換の契機になったと考えている。
(国立歴史民俗博物館)
【大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達した】
本研究の結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が本土人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。
大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、
近畿地方や四国地方の人々に渡来人の遺伝的構成成分がより多く残っていることは、日本列島における縄文人と渡来人の混血過程を考えるうえで興味深い。
東京大学大学院・広報室 (2020/10/14)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/7056/ >東アジアの五集団は、それぞれの集団間の遺伝距離が非常に小さい。特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。
この分析でも、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなったのである。
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した。東アジア人のクラスターでは、アイヌが最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。
続いて琉球人が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
(国立遺伝学研究所HP)
https://www.nig.ac.jp/museum/evolution-x/02_e.html (笑)
30 既にその名前は使われています [sage] 2021/08/13(金) 10:05:36.45 ID:MErDrf3B
それは一昔前の定説だね
黒潮海上ルートで弥生人が来たとしたら、九州→半島というルートもあり得るし
実際稲の遺構から考えてその可能性もある
>ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
新石器時代の長江中・下流域の栽培稲は熱帯型ジャポニカであるが、温帯型ジャポニカは山東半島以北の膠東半島、遼東半島、朝鮮半島で生まれた可能性が高い。
夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
板付Ⅰ式からⅡ a 式の福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、夜臼Ⅱ式以降に洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
>前 5世紀頃になると,九州北部沿岸地域において,稲作関連の技術面に大転換が起こる。水稲を収穫する朝鮮半島南部と基本的に共通する新しい利器類の出現である。
これらの変化を引き起こしたのが前 7~6 世紀に朝鮮半島南部で始まった本格的な水稲農耕と,環壕集落を指標とする農耕社会の成立である。
このような水稲農耕文化を背景にもつ朝鮮半島中・南部の人々が,血縁集団を単位として九州北部沿岸地域の下流域に入り,
在来民との相互交流を開始して,ともに農耕集落を造り,水田を拓いたことが,このような大転換の契機になったと考えている。
(国立歴史民俗博物館)
(笑)
36 既にその名前は使われています [sage] 2021/08/13(金) 10:25:29.46 ID:MErDrf3B
南方ルート説が泣き所みたいだね
(笑)
南方ルート説
36 既にその名前は使われています [sage] 2021/08/13(金) 10:25:29.46 ID:MErDrf3B
南方ルート説が泣き所みたいだね
↓
?
国立科学博物館
国立歴史民俗博物館
日本人類学会(国立筑波大学・国立東京大学)
国立遺伝学研究所
国立長寿医療研究センター
国立九州大学
>朝鮮半島から日本列島への人の移住が引き金になって、縄文時代から弥生時代への転換が起こりました。稲作農耕の定着など文化的には大きな変化が起こりました。
(国立科学博物館 ) 2019
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館 教授/総合研究大学院大学 教授) 2019
>紀元前10世紀、渡来系弥生人が大陸から朝鮮半島を経て北九州近辺に入って来た。
彼らは大陸の先進文化の金属器、弥生式土器、水田稲作などを携えていた。
(日本人類学会) 場所 東京大学 2018
>水稲耕作文化を伝えた朝鮮半島からの移住民はコミュニティにおいて優位性を持ち,
その結果として日本人集団の中で朝鮮半島からの移住民の子孫が急速に増加したとも考えられる。
(国立遺伝学研究所/東海大学医学部) 2014
>稲作農耕社会の拡大と定住化および人口密度の著しい上昇,弥生時代に生じた大規模なそして波動的な朝鮮半島からの多量の渡来人に伴って
結核菌の伝播がなされ,やがて爆発的流行を迎えたことはほぼ確実である.
(国立長寿医療研究センター) 2015
>温帯型ジャポニカは、木棺墓や磨製石剣とともに洛東江下流域から福岡平野流入したものである可能性が高い。
環濠集落や列状墓、B 式磨製石剣とともに温帯ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学) 2019
>>36
違う違うスペさんは半島ルート以外は全部火病起こすから
江南説とか一時は認めてたみたいだけど
ついこの間ものすごい勢いで発狂してたよ。 (笑)
40 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 10:46:49.45 ID:/ggTZD4C
半島ルート
江南説
(笑)
918 2021/08/11(水) 05:57:28.02 ID:1BEOH8Q9
あれ? 稲の品種に関してはだいぶ前にDNAで半島と日本の稲は違うって結論出てたよね。
弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。(佐藤 洋一郎)
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
──稲作というと水田と思いがちですが・・・
佐藤 現在の日本の稲作は水中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、
じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。
──何か発見があったのですか?
佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。
──なるほど。それだけの農耕ができるのであれば、稲作があって当然という気がしますね。
佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
私は、ひょっとすると縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。
縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?
佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。 稲作の朝鮮半島経由ルートっての
ようは東シナ海から北上した黄海沿岸経由ルートなんだけど
スペさんがコピペしてる論文にもあるけど温帯ジャポニカなのよね
炭化した稲籾みたいのは見つかってるけど、栽培してなかったんじゃないかって書いてある
そのあと寒冷化が進んで水牛と一緒に消滅したってのが実際のとこじゃない?
日本列島に渡ってくる頃は厳しい食糧難だったろうし
(笑)
44 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 11:38:20.23 ID:IBY00Zuq
稲作の朝鮮半島経由ルートっての
ようは東シナ海から北上した黄海沿岸経由ルートなんだけど
スペさんがコピペしてる論文にもあるけど温帯ジャポニカなのよね
炭化した稲籾みたいのは見つかってるけど、栽培してなかったんじゃないかって書いてある
そのあと寒冷化が進んで水牛と一緒に消滅したってのが実際のとこじゃない?
日本列島に渡ってくる頃は厳しい食糧難だったろうし
↓
?
国立科学博物館
国立歴史民俗博物館
日本人類学会(国立筑波大学・国立東京大学)
国立遺伝学研究所
国立長寿医療研究センター
国立九州大学
>朝鮮半島から日本列島への人の移住が引き金になって、縄文時代から弥生時代への転換が起こりました。稲作農耕の定着など文化的には大きな変化が起こりました。
(国立科学博物館 ) 2019
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館 教授/総合研究大学院大学 教授) 2019
>紀元前10世紀、渡来系弥生人が大陸から朝鮮半島を経て北九州近辺に入って来た。
彼らは大陸の先進文化の金属器、弥生式土器、水田稲作などを携えていた。
(日本人類学会) 場所 東京大学 2018
>水稲耕作文化を伝えた朝鮮半島からの移住民はコミュニティにおいて優位性を持ち,
その結果として日本人集団の中で朝鮮半島からの移住民の子孫が急速に増加したとも考えられる。
(国立遺伝学研究所/東海大学医学部) 2014
>稲作農耕社会の拡大と定住化および人口密度の著しい上昇,弥生時代に生じた大規模なそして波動的な朝鮮半島からの多量の渡来人に伴って
結核菌の伝播がなされ,やがて爆発的流行を迎えたことはほぼ確実である.
(国立長寿医療研究センター) 2015
>温帯型ジャポニカは、木棺墓や磨製石剣とともに洛東江下流域から福岡平野流入したものである可能性が高い。
環濠集落や列状墓、B 式磨製石剣とともに温帯ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学) 2019
弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。(佐藤 洋一郎)
>佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
↓
>穀物栽培がいつ始まったのかという点になると,最近の調査はその年代を急速にさかのぼらせつつある。
プラント・オパールだけをとってみると,約 1万年前までさかのぼるデータも得られているという。
前 5世紀頃になると,九州北部沿岸地域において,稲作関連の技術面に大転換が起こる。
水稲を収穫する朝鮮半島南部と基本的に共通する新しい利器類の出現である。
これらの変化を引き起こしたのが前 7~6 世紀に朝鮮半島南部で始まった本格的な水稲農耕と,環壕集落を指標とする農耕社会の成立である。
弥生文化の設定において,何故朝鮮半島無文土器文化からの文化要素の浸透,とりわけ水田稲作技術の定着が重視されるのかというと,
そこには,我々が,水田稲作技術の定着というイベントを,その後の「歴史」の展開上の大きな画期と評価してきたことが関係する。
(国立歴史民俗博物館)
↓
>ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
新石器時代の長江中・下流域の栽培稲は熱帯型ジャポニカであるが、温帯型ジャポニカは膠東半島、遼東半島、朝鮮半島で生まれた可能性が高い。
宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
(笑)
44 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 11:38:20.23 ID:IBY00Zuq
稲作の朝鮮半島経由ルートっての
ようは東シナ海から北上した黄海沿岸経由ルートなんだけど
そのあと寒冷化が進んで水牛と一緒に消滅したってのが実際のとこじゃない?
日本列島に渡ってくる頃は厳しい食糧難だったろうし
↓
(九州大学 2019)
>温帯型ジャポニカは、洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
都合のいい所だけ切り抜いて色んなとこからもって来るから時系列バラバラ。
前スレでも言われてたけど紀元前10世紀の縄文時代には菜畑遺跡で水稲農耕が行われてたのに、なんで弥生時代の土器と一緒に広まった事になってんの?
(失笑)
48 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 16:32:07.21 ID:p2vJuehN
スペさん
毎回の独自考察で論文を否定する
↓
>温帯型ジャポニカは、洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
紀元前10世紀の菜畑遺跡の水田遺構はスペさんには不都合の真実で見えないらしい。
(笑)(笑)
49 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 16:42:28.06 ID:SEI/CTch
都合のいい所だけ切り抜いて色んなとこからもって来るから時系列バラバラ。
↓
>ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
弥生の始まりである弥生早期の夜臼Ⅰ式は、唐津市、汲田貝塚の炭化米や雑穀の放射性炭素年代から、紀元前9世紀~8世紀であることが確定した。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
※菜畑遺跡、佐賀県唐津市の西南部。
福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
菜畑遺跡って水稲だから温帯ジャポニカでしょ?まだ熱帯ジャポニカも混在してたらしいけど。
(笑)
53 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
菜畑遺跡って水稲だから温帯ジャポニカでしょ?
>夜臼Ⅰ式段階の移住者は半島南海岸の南岸から半島南海岸中部にかけての人々であり、対馬・壱岐を経て唐津や糸島を目指した旅であったことが理解される。
それは、支石墓などの墓制とともにA式磨製石剣を伴い、朝鮮半島南海岸の南江流域から流入したものであり、彼らは熱帯ジャポニカを主体とする稲作をもたらしたのであった。
水稲農耕の開始を示す弥生時代の始まりは、こうした北部九州の一部に始まったのである。
弥生期に入って水稲農耕に切り替わっても熱帯ジャポニカはまだ結構残ってる。
菜畑は水稲だから普通に温帯ジャポニカ。ただ熱帯ジャポニカも混ざってる。
薄いとこはが温帯ジャポニカ
【弥生時代時代以降の遺跡から見つかった熱帯ジャポニカの事例】日本人はるかな旅4 イネ、知られざる1万年の旅/NHK出版
菜畑遺跡
>遺構は16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。
それより上層にも【弥生時代中期】←までの水田遺構が検出された。
当時は直播きで栽培されたと推測されている。
>弥生の始まりである弥生早期の夜臼Ⅰ式は、唐津市の炭化米や雑穀の放射性炭素年代から、紀元前9世紀~8世紀であることが確定した。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
※菜畑遺跡、佐賀県唐津市の西南部。
夜臼Ⅰ式段階の移住者は半島南海岸の南岸から半島南海岸中部にかけての人々であり、
支石墓などの墓制とともにA式磨製石剣を伴い、朝鮮半島南海岸の南江流域から流入したものであり、
彼らは【熱帯ジャポニカ】を主体とする稲作をもたらしたのであった。
【水稲農耕】の開始を示す弥生時代の始まりは、こうした北部九州の一部に始まったのである。
ん? 菜畑遺跡は紀元前10世紀から半島の温帯ジャポニカが紀元前5世紀に入ってくるまでの約500年間
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
この中国から直できた温帯ジャポニカのRM1-bはさらに後に入ってきたってこと?
中国と日本のが水田が古いのに?
>2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲【温帯ジャポニカ】のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査で
SSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a~hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。
朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。
RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、
江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が確認された。
さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、
温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している
「日本人はるかな旅」④イネ、知られざる1万年の旅 NHK出版
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
RM1の多様性のデータとこの考えとの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
【陸稲(りくとう / おかぼ)】
畑で栽培されるイネ(稲)。野稲(のいね)とも呼ばれている。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
>【水稲でも】←、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?
佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
? だからこれ言ってんだって。
このRM1-bが温帯ジャポニカで江南から直で入ってきたのは認めてるって事でいいの?
「日本人はるかな旅」④イネ、知られざる1万年の旅 NHK出版
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。(佐藤 洋一郎)
>佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
↓
>穀物栽培がいつ始まったのかという点になると,最近の調査はその年代を急速にさかのぼらせつつある。
プラント・オパールだけをとってみると,約 1万年前までさかのぼるデータも得られているという。
前 5世紀頃になると,九州北部沿岸地域において,稲作関連の技術面に大転換が起こる。
水稲を収穫する朝鮮半島南部と基本的に共通する新しい利器類の出現である。
これらの変化を引き起こしたのが前 7~6 世紀に朝鮮半島南部で始まった本格的な水稲農耕と,環壕集落を指標とする農耕社会の成立である。
弥生文化の設定において,何故朝鮮半島無文土器文化からの文化要素の浸透,とりわけ水田稲作技術の定着が重視されるのかというと,
そこには,我々が,水田稲作技術の定着というイベントを,その後の「歴史」の展開上の大きな画期と評価してきたことが関係する。
(国立歴史民俗博物館)
↓
>ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野に流入した可能性が高い。
福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。(佐藤 洋一郎)
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
──稲作というと水田と思いがちですが・・・
佐藤 現在の日本の稲作は水中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、
じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。
──何か発見があったのですか?
佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。
──なるほど。それだけの農耕ができるのであれば、稲作があって当然という気がしますね。
佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
私は、ひょっとすると縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。
縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?
佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。 いや、コピペ連投で逃げなくていいよ。
認めたって事でいいの?
弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。(佐藤 洋一郎)
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
──稲作というと水田と思いがちですが・・・
佐藤 現在の日本の稲作は水中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、
じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。
──何か発見があったのですか?
佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。
──なるほど。それだけの農耕ができるのであれば、稲作があって当然という気がしますね。
佐藤 ええ、私も、確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
私は、ひょっとすると縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。
縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
──【水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?】
佐藤 【はい】、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。) 57 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:49:50.58 ID:/ggTZD4C
薄いとこはが温帯ジャポニカ
【弥生時代時代以降の遺跡から見つかった熱帯ジャポニカの事例】
日本人はるかな旅4 イネ、知られざる1万年の旅/NHK出版
↓
「日本人はるかな旅」④イネ、知られざる1万年の旅 NHK出版
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
>──【水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?】
佐藤 【はい】、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
めんどくさいな。江南説を認めたってことね。
>水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
(佐藤 洋一郎)
↓
>穀物栽培がいつ始まったのかという点になると,最近の調査はその年代を急速にさかのぼらせつつある。
プラント・オパールだけをとってみると,約 1万年前までさかのぼるデータも得られているという。
前 5世紀頃になると,九州北部沿岸地域において,稲作関連の技術面に大転換が起こる。
水稲を収穫する朝鮮半島南部と基本的に共通する新しい利器類の出現である。
弥生文化の設定において,何故朝鮮半島無文土器文化からの文化要素の浸透,とりわけ水田稲作技術の定着が重視されるのかというと,
そこには,我々が,水田稲作技術の定着というイベントを,その後の「歴史」の展開上の大きな画期と評価してきたことが関係する。
(国立歴史民俗博物館)
↓
>弥生の始まりである弥生早期の夜臼Ⅰ式は、唐津市の炭化米や雑穀の放射性炭素年代から、紀元前9世紀~8世紀であることが確定した。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
※菜畑遺跡、佐賀県唐津市の西南部。
福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
57 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:49:50.58 ID:/ggTZD4C
薄いとこはが温帯ジャポニカ
日本人はるかな旅4 イネ、知られざる1万年の旅/NHK出版
↓
「日本人はるかな旅」④イネ、知られざる1万年の旅 NHK出版
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
>日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。
RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、
日本の水稲は【朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり】、
江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が確認された。
それでこういう事なんじゃないの?
中国江南の草鞋山遺跡の水田跡が6000年前とからしいけど。
中国大陸から日本列島に直接伝播するルートがあってその中にb遺伝子を持つ水稲があったって書いてあるけどいいの?w
>>77
それ同じ本の同じ著書の内容だぞ。p127の図5だ。
でRM1は全部、温帯ジャポニカの話だぞ。 「日本人はるかな旅」④イネ、知られざる1万年の旅 NHK出版
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとこの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
「稲の日本史」佐藤洋一郎
【結論】
スペさんは江南説を認めた。
でも心が受け付けずコピペで逃避行。
弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。(佐藤 洋一郎)
──稲作というと水田と思いがちですが・・・
佐藤 現在の日本の稲作は水中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、
じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。
確かに水田というのは、通説通り、縄文時代晩期に持ち込まれたものだと思っています。
実は、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?
佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
57 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:49:50.58 ID:/ggTZD4C
弥生期に入って水稲農耕に切り替わっても熱帯ジャポニカはまだ結構残ってる。
菜畑は水稲だから普通に温帯ジャポニカ。ただ熱帯ジャポニカも混ざってる。
日本人はるかな旅4 イネ、知られざる1万年の旅/NHK出版
↓
「日本人はるかな旅」④イネ、知られざる1万年の旅 NHK出版
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとこの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
>>86
>>79も言ってるけど、自分で貼ったその画像に
温帯ジャポニカのb遺伝子は朝鮮半島にない遺伝子にもかかわらず、
日本列島や中国大陸に高い頻度で分布するって書いてあるぞ。
都合悪いのは見えないのかも知れないけど。 20 2020/06/22(月) ← ID:57ZT6zwe
【弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。】
佐藤 洋一郎
57 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:49:50.58 ID:/ggTZD4C
弥生期に入って水稲農耕に切り替わっても熱帯ジャポニカはまだ結構残ってる。
菜畑は水稲だから普通に温帯ジャポニカ。ただ熱帯ジャポニカも混ざってる。
日本人はるかな旅4 イネ、知られざる1万年の旅/NHK出版
↓
「日本人はるかな旅」④イネ、知られざる1万年の旅 NHK出版
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。←←←
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとこの間に矛盾はない。←←←
(佐藤 洋一郎)
半島から経由したとしても当時住んでた民族は違うんだがね
>>93
科学研究費助成事業・研究成果報告書
日本各地の縄文系対弥生系人口比率と日本人成立過程 (東京大学 2014 )
【稲作技術を携えた渡来系弥生人は、朝鮮半島を経て北九州に入って来た】
>日本人は先住の縄文人(狩猟採集民)と後入り渡来系弥生人(水田稲作民)の混血により成立した。
渡来系弥生人は、今から3千~2千5百年前、大陸から朝鮮半島を経て、北九州近辺に入って来た。
大陸の先進文化(稲作技術や金属器など)を携えていた。
やがて彼らは縄文人を圧倒するようになり、更に日本列島上を東に進んで、3世紀末に畿内で大和朝廷を打ち立てた。
【韓国人の半分以上は、弥生系の日本人と同じハプログループ持つ人たちである】
>ソウルで測定された韓国人におけるハプログループ出現頻度分布には、弥生系日本人におけるハプログループ出現頻度分布を特徴付ける成分を多く含むことが分かった。
これより、韓国人の半分以上の人たちは、弥生系日本人と同じ mtDNA ハプログループ出現頻度分布を持つ人たちであることが判った。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-21570243/21570243seika.pdf でも日本人って韓国人から稲作や仏教を教えて貰わなかったら土人のままだったわけじゃん? ⑧
http://2chb.net/r/ogame/1592772684/
20 既にその名前は使われています 2020/06/22(月) 06:51:53.25 ID:57ZT6zwe
【弥生人が朝鮮半島から伝えたとされる日本の稲作。 実は、縄文時代にも中国伝来の稲作があったんです。】
佐藤 洋一郎
──稲作というと水田と思いがちですが・・・ >>93
北方経由ルートのはもうだいぶ前のスレだけど
北部漢族CHBと日本列島本土人JPNの共通性についての話はしただな
そのいわゆる渡来系弥生人の遺伝的要素が
日本本土人で7割くらい
朝鮮民族は5割くらいなのよね
日本列島は日本海で隔離されたから「その後」の変異は少ないんだけど
朝鮮半島はその後も南下圧力があったり中華王朝の支配があったりでかなり他の民族の遺伝子が入ってる
日本人でも地域で8系統くらいに別れるから
朝鮮半島も正確な調査をすればかなり別れるんじゃないかな >朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
(佐藤 洋一郎)
↓
>プラント・オパールだけをとってみると,約 1万年前までさかのぼるデータも得られているという。
前 5世紀頃になると,九州北部沿岸地域において,稲作関連の技術面に大転換が起こる。
水稲を収穫する朝鮮半島南部と基本的に共通する新しい利器類の出現である。
弥生文化の設定において,何故朝鮮半島無文土器文化からの文化要素の浸透,とりわけ水田稲作技術の定着が重視されるのかというと,
そこには,我々が,水田稲作技術の定着というイベントを,その後の歴史の展開上の大きな画期と評価してきたことが関係する。
(国立歴史民俗博物館)
↓
>弥生早期の夜臼Ⅰ式は、唐津市の炭化米や雑穀の放射性炭素年代から、紀元前9世紀~8世紀であることが確定した。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
※菜畑遺跡、佐賀県唐津市の西南部。
福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 2019)
>>97
>日本人の起源については諸説あるが,約 30,000 年前の後期旧石器時代に日本列島へと移住してきた縄文人と,
紀元前 1,000 年から西暦 300 年頃に朝鮮半島から日本列島へと移住してきた弥生人の祖先が混血して,
現在の日本人集団の起源になったとする“混合モデル”が有力であると考えられている。
本稿では,日本人集団の混合的起源を支持する遺伝的知見について概説するとともに,
HLA 遺伝子多型から日本人の祖先集団を推測する遺伝的痕跡の探索について,最新の研究を紹介したい。
>日本人本土集団の HLA ハプロタイプの大部分は朝鮮集団にも存在することが報告されている。
これは弥生人の祖先集団が朝鮮半島から移住してきたであろうことを考えれば,自然な現象であると思われる。
>ハプロタイプ(A*24:02-C*12:02-B*52:01-DRB1*15:02-DPB1*09:01およびA*33:03-C*14:03-B*44:03-DRB1*13:02-DPB1*04:01)は,
日本と朝鮮だけに存在することから,弥生時代に朝鮮半島からもたらされ,日本本土で急速に増加したものと推察される。
>水稲耕作文化を伝えた朝鮮半島からの移住民はコミュニティにおいて優位性を持ち,
その結果として日本人集団の中で朝鮮半島からの移住民の子孫が急速に増加したとも考えられる。
「HLA 遺伝子多型からみた日本人集団の混合的起源」(国立遺伝学研究所/東海大学医学部 2014)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mhc/21/1/21_37/_pdf >>97
>東アジアの五集団は、それぞれの集団間の遺伝距離が非常に小さい。特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。
この分析でも、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなったのである。
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した。東アジア人のクラスターでは、アイヌが最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。
続いて琉球人が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。
(国立遺伝学研究所HP)
https://www.nig.ac.jp/museum/evolution-x/02_e.html >>97
【大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達した】
本研究の結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が本土人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。
大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、
近畿地方や四国地方の人々に渡来人の遺伝的構成成分がより多く残っていることは、日本列島における縄文人と渡来人の混血過程を考えるうえで興味深い。
東京大学大学院・広報室 (2020/10/14)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/7056/ 縄文人は既に広い範囲で移動して交易してるからヒトの移動と交流は想像以上に行われてるんよねー
実際、縄文時代晩期の稲作中心地は岡山だし
糸魚川のヒスイが高度な加工技術で勾玉にされて朝鮮半島まで伝えられたり
考古学の論文によくある間違いだけど
昔の人は劣ってたって前提の考え方で書いちゃうの
想像以上に豊かで好奇心旺盛で進んでたんよ
江南説は前から認めてます。アピールしてるけど、全部朝鮮から伝わったって日本全土に広まったとする九州大の説を推してる時点で矛盾してんだよな。
スペさんミスリードしてるけど
この九大の人の論文も黄海沿岸経由ルートはかなり疑義を呈してるよ
>>102
>越高遺跡は、対馬西北部に位置し、海岸部から細い谷部にかけて立地する縄文時代早期末~前期(今から約7,100年前~6,400年前)の遺跡である。
最大の特徴は、出土する土器の大半が、朝鮮半島新石器時代早期の隆起文土器で占められる点にある。
また、海岸部では、石組み炉が見つかっているが、類例は同時期の日本列島にはなく、韓国釜山市の東三洞遺跡や凡方貝塚で確認されている。
これらの点から、新石器時代に朝鮮半島から渡来した人々が居住した遺跡であることが分かる。
一方、土器に使われた粘土に対馬産のものが含まれることや、石器に使われた黒曜石の産地が、西北九州産の石材のみで構成されることから、
これらの材料については、九州の縄文人との交流の中で入手していたと推測できる。
このように、越高遺跡は、縄文時代早期末~前期に朝鮮半島から渡来した人々が、九州の縄文人と交流しながら物資を入手し、
生活することで形成された遺跡と考えることができ、縄文時代の日韓交流の在りようを示す遺跡として高く評価できる。
(長崎県HP)
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/790 当時韓国も朝鮮人もいないんだから無意味な議論だけどな
朝鮮民族の成立は13世紀
早くても11世紀って韓国の研究だけど
韓国だからダメw最高権威wって言うだろーね
「単独」 30年ぶりに任那日本府の亡霊から脱した新徳古墳
「咸平新徳1号墳は、倭人ではなく地域首長墓の可能性が高い」
●30年未公開発掘調査の結果、今月末に発表
任那日本府説に利用される恐れから、30年間公開されることがなかった三国時代「新徳1号墳」の発掘調査結果が今月末に発表される。東亜日報が事前入手した発掘調査報告書によると、古墳出土遺物からは百済と倭の文化が混在した様相が確認された。調査結果を分析した韓日考古学者らは、20、30代の男性と推定されるこの墓の主人を、地域の首長である可能性が高いという結論を下した。これは、韓半島に進出した倭人が埋められたという任那日本府説の見方と反するものだ。
1991年3月、盗掘の痕跡が発見され、初めて調査が行われた新徳1号墳は、日本の古代墓でよく発見される鍵穴模様の典型的な前方後円墳(前方は四角く、後方は丸い封墳を持つ墓)だ。新徳1号墳は、このような封墳の形のため、古代日本が韓半島南部を支配したという任那日本府説の根拠に使われる可能性があるという憂慮が提起された。しかし、調査の結果、副葬遺物から百済と倭文化が混合されていて、彼らと交流した栄山江一帯の支配勢力が墓を作った可能性が大きいと分析された。 ●墓の主人は20、30代男性
国立光州博物館が日本の研究者たちまで立ち合わせた「新徳1号墳発掘調査報告書」を電撃発刊することにしたのは、6世紀の栄山江一帯の支配勢力の独自性が見える多様な考古学証拠が最近発見されたことによるものだ。任那日本府説の限界が明らかになったということだ。先立って、博物館はこの墓を1991年から2000年まで4回調査したが、当時は調査結果を公開してなかった。キム・ナクチュン全北大教授(考古学)は、「6世紀前葉、栄山江流域の現地勢力が重要な役割を果たした事実が明らかになって、任那日本府説によって歪曲解釈される余地が減った。新徳1号墳発掘調査報告書の発刊に日本の学者たちまで立ち合わせたのは、国内学界の自信感が反映された結果」と話した。
報告書によると、神徳1号墳からは、墓の主の高い身分を示す金銅冠、金銅飾履、練理文玉、重層ガラス玉、大刀、鎧、兜、青銅雲珠などの様々な副葬品が出土した。墓から出土した歯6点の大きさと摩耗程度を分析した結果、20代後半から30代半ばの男性が埋められたものと推定された。
キム・サンウン記者
ソース 東亜日報(韓国語)
https://news.naver.com/main/read.naver?mode=LSD&;mid=sec&sid1=103&oid=020&aid=0003375015 ●金銅冠・金銅飾履 百済匠人技
墓からは百済と倭の文化が混ざった様式が数多く確認された。百済、倭、伽耶の文化を幅広く受け入れた栄山江一帯の支配勢力の文化受容の様相が反映された。高田貫太日本国立歴史民俗博物館教授は、報告書に含まれた「咸平新徳1号墳出土の棺、飾履について」の論考で、2枚の側板が踵と足の甲でつながった金銅飾履の構造を根拠として、百済工人が副葬された金銅飾履を製作したと見た。金銅冠もまた亀甲の模様を刻んだ形が金銅飾履と似ていて、同じ技術の伝統を持つ百済の工人が製作したと分析された。 これと比べて、前方後円墳の構造や、組んだ形の環頭大刀は倭系文化の属性に分類された。棺の枠の上に二つの峰がそびえた形の広帯二山式金銅冠は、倭と百済の要素が混合された様式だ。彼は「新徳1号墳は、栄山江流域社会の主体的な対外交渉と積極的な外来墓祭を受容する動きを示している。ここに埋められた人は、百済、倭と密接な関係を持つ地域集団の首長層と見ることができる」と書いた。
国内考古学界も6世紀前葉、百済王権が栄山江流域に影響力を拡大する過程で、これを牽制するために倭、伽耶と活発に交流した同地域の首長の墓である可能性が高いと見ている。 キム・ナクチュン教授は、「咸平新徳1・2号墳の墳丘と石室」の論考で、「取捨選択的墓祭の導入を見れば、墓の築造主体は現地勢力だった可能性が高い」とし、「(墓の主人は)栄山江流域圏内の他のどの地域よりも、百済中央との深い関係の中で、地域支配で中枢的役割をしたと推定される」と明かした。
墓からは、6世紀前葉に韓半島南部と日本列島、東南アジアをつなぐ文化交流が活発に行われていたことを示す遺物も多数発見された。木棺彫刻の樹種が武寧王陵と同じ「日本産松」と判別された事実が代表的だ。さらに、ガラス玉41点の成分を分析した結果、このうち5点(緑や黄色ガラス)の原料産地が泰国のものである可能性が高いことが分かった。
おわり
百済は倭人の支配だったって証拠貼ってどうした?
前方後円墳の時点でそういう解釈になるんだけど。
「日本に大きな影響を与えた朝鮮半島の水田稲作・弥生時代の歴史:第1章~水田稲作の始まり~前編」
(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館 教授/総合研究大学院大学 教授) 収録日:2019/06/04
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に位置するウルサン市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
これらは一つ一つの区画が数平米と小さい「小区画水田」と呼ばれるものです。谷筋を流れる水を使って、水田稲作を行っていたことが分かります。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 このオクキョン遺跡の水田とか他に支持してる人とかいんの?
全然出てこないんだよ。CiNiiでもWikiですらまともな情報出てない。
調査まとめた論文も国立歴史民俗博物館の書庫にしかなくて
研究者以外閲覧禁止になってんだよね。
「日本人はるかな旅」イネ、知られざる1万年の旅 (NHK出版)
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとこの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
>>115
貼ったままですまぬw
記事にもあるように、韓国側はイデオロギーが優先されて事実を捻じ曲げられるのよね
倭人の影響があったことが気に入らないって
あと、前にスペさんが発狂した棺桶の木材についてもあったからそれもおまけw >>121
そういう事か。
向こうの考古学はまんまスペさんと一緒w
結論ありきで都合よくでっち上げる精神だもんな 「日本人はるかな旅」イネ、知られざる1万年の旅 (NHK出版)
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとこの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
「日本に大きな影響を与えた朝鮮半島の水田稲作・弥生時代の歴史:第1章~水田稲作の始まり~前編」
(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館 教授/総合研究大学院大学 教授) 収録日:2019/06/04
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に位置するウルサン市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
これらは一つ一つの区画が数平米と小さい「小区画水田」と呼ばれるものです。谷筋を流れる水を使って、水田稲作を行っていたことが分かります。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 国立科学博物館
国立歴史民俗博物館
日本人類学会(国立筑波大学・国立東京大学)
国立遺伝学研究所
国立長寿医療研究センター
国立九州大学
>朝鮮半島から日本列島への人の移住が引き金になって、縄文時代から弥生時代への転換が起こりました。稲作農耕の定着など文化的には大きな変化が起こりました。
(国立科学博物館 ) 2019
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館 教授/総合研究大学院大学 教授) 2019
>紀元前10世紀、渡来系弥生人が大陸から朝鮮半島を経て北九州近辺に入って来た。
彼らは大陸の先進文化の金属器、弥生式土器、水田稲作などを携えていた。
(日本人類学会) 場所 東京大学 2018
>水稲耕作文化を伝えた朝鮮半島からの移住民はコミュニティにおいて優位性を持ち,
その結果として日本人集団の中で朝鮮半島からの移住民の子孫が急速に増加したとも考えられる。
(国立遺伝学研究所/東海大学医学部) 2014
>稲作農耕社会の拡大と定住化および人口密度の著しい上昇,弥生時代に生じた大規模なそして波動的な朝鮮半島からの多量の渡来人に伴って
結核菌の伝播がなされ,やがて爆発的流行を迎えたことはほぼ確実である.
(国立長寿医療研究センター) 2015
>温帯型ジャポニカは、木棺墓や磨製石剣とともに洛東江下流域から福岡平野流入したものである可能性が高い。
環濠集落や列状墓、B 式磨製石剣とともに温帯ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学) 2019
(笑)
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲(りくとう / おかぼ)】
畑で栽培されるイネ。野稲とも呼ばれている。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
>>124
この朝鮮半島最古のオクキョン遺跡の水田跡は今どうなってんの?
普通そんな貴重な遺跡は日本の菜畑遺跡の水田跡みたく大切に保存されたり再現したりすると思うけど。 >論点のすり替え
非形式的誤謬の一種であり、それ自体は妥当な論証だが、本来の問題への答えにはなっていない論証を指す。
>人身攻撃
ある論証や事実の主張に対して、その主張自体に具体的に反論するのではなく、主張した人の個性や信念を攻撃すること、またそのような論法。
論点をすりかえる作用をもたらす。人格攻撃論法ともいわれる。論理的な誤りである誤謬のひとつ。
>お前だって論法
論理学上の誤謬であり、相手の主張する議論を貶めるために、相手がその主張に沿った振る舞いをしていないと断言するような論法。日本語では、偽善の抗弁などと表現されることもある。
「日本に大きな影響を与えた朝鮮半島の水田稲作・弥生時代の歴史:第1章~水田稲作の始まり~前編」
(藤尾慎一郎・国立歴史民俗博物館 教授/総合研究大学院大学 教授) 収録日:2019/06/04
>紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に位置するウルサン市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
これらは一つ一つの区画が数平米と小さい「小区画水田」と呼ばれるものです。谷筋を流れる水を使って、水田稲作を行っていたことが分かります。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975 中国の土器の時もそうだったけど、日本より古い最古級のものが発見されたってなって
じゃあ他国が鑑定しますってなるとどっかいったり、埋めちゃうんだよね。
あと、藤尾は九州大の説には否定的のようだけど。
> 突帯土器に伴う文化全体をみるとそれぞれの文化背景が大きく異なることも重要であ る。韓国南部の突帯文土器は畠作農耕文化だし、e沙里の突帯文土器も畠作が想定されている。孔列文 土器に突帯文土器がわずかにともなう蔚山市玉オクキョンC遺跡で灌漑式水田が出現している可能性はあるものの、基本的には畠稲作の土器は突帯文土器なので、韓国から水田稲作文化とともに突帯文土器がもたらされたという李や安の説に同意することは難しい。石器の組み合わせをなども含めて総合的に検討する 必要があろう。
https://123deta.com/document/nq7xr7dy-論文PDF総合研究大学院大学学術情報リポジトリ.html >>130
中国は昔に日本の縄文土器に対抗して捏造したりしたけど
普通に出てくる稲作とかの遺構と整合性が取れなくなってマズイと気づいたのか
歴史に関してはマジメにやってる
下手なことしなくても最古の史料がでてくるし
他のまで疑義が持たれると困るでな >>131
土器は捏造だろうけど、確かにね。
中国はむしろ多民族の古い遺跡とか出て来ちゃって
困ってるって感じがするわ。
中国の史書にない大規模な遺跡とか沢山あるようだし。
韓国は今だに前方後円墳埋めたりこのオクキョンの水田跡みたいな事するからな。 >④突帯文土器の韓国祖型説について
李弘鍾(イ・ホンジョン)や安在晧(アン・ジェホ)は1980年代から韓国の突帯文土器を西日本の突帯文土器の祖型とみる説を主張してきた。
孔列文土器に突帯文土器がわずかにともなう蔚山市玉オクキョン遺跡で灌漑式水田が出現している可能性はあるものの、
基本的には畠稲作の土器は突帯文土器なので、韓国から水田稲作文化とともに突帯文土器がもたらされたという李や安の説に同意することは難しい。
「弥生時代の開始年代 AMS炭素14年代測定による高精度年代体系の構築」 藤尾慎一郎
(2005年)
【李弘鍾(イ・ホンジョン)】
【安在晧(アン・ジェホ)】
>ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
新石器時代の長江中・下流域の栽培稲は熱帯型ジャポニカであるが、温帯型ジャポニカは山東半島以北の膠東半島、遼東半島、朝鮮半島で生まれた可能性が高い。
夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
板付Ⅰ式からⅡ a 式の福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、夜臼Ⅱ式以降に洛東江下流域から福岡平野へ流入したものであ
る可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 宮本一夫 2019)
対立した内容の論文並べてどうした?
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが
韓国の教授や九州大の教授の説だけど
それを否定してるのがスペさんの大好きな藤尾だぞ
藤尾は突帯文土器がオクキョン遺跡にないから韓国や九州大の説を否定してるけど
たしかに水田ないところだったり、日本より後の朝鮮半島の水田から
水田稲作文化が日本に流入して広がるわけがないんだよ。当然だけど。
それは正しいけど、問題なのは藤尾が主張するオクキョン遺跡の最古の水田が
相当怪しくて他の考古学者が誰も支持してないって事。
(失笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが
韓国の教授や九州大の教授の説だけど
(呆)
刻目突帯文土器
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
この時代、土器の構成は、甕(かめ)と、浅鉢、深鉢が使われ、刻目突帯文は、甕にほどこされていた。
代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器(ゆうすしきどき)、山ノ寺式土器(やまのでらしきどき)である。
?
> 温帯型ジャポニカは、夜臼Ⅱ式以降に洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである
だから夜臼式は突帯文土器でしょ?
何いってんの? なんでこんな読解力無いんだ。
論文まともに読めないから
相反する説を並べてもマウントとった気になれるのか。
幸せだな。
こんだけ色んな論文切り貼りして並べたら、そりゃ矛盾だらけになるわ。
しかも内容理解してないし。
【刻目突帯文土器 (縄文式土器)】
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
この時代、土器の構成は、甕(かめ)と、浅鉢、深鉢が使われ、刻目突帯文は、甕にほどこされていた。
代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
刻目突帯文土器は、西日本の最後の縄文土器であり、水田農耕の開始の時期にも主要な土器であった。
そして、縄文晩期末・弥生早期に、弥生土器が生まれた。
だから弥生時代より前の縄文時代には水田稲作文化が
成立してましたって話だろ。
何いってんだよ。これは普通に結構大きい話題になってるわ。
大丈夫かよ。
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
【 刻目突帯文土器 (縄文式土器) 】
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
この時代、土器の構成は、甕(かめ)と、浅鉢、深鉢が使われ、刻目突帯文は甕にほどこされていた。代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
刻目突帯文土器は、西日本の最後の縄文土器であり、水田農耕の開始の時期にも主要な土器であった。
【陸稲(りくとう / おかぼ)】
畑で栽培されるイネ。野稲とも呼ばれている。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
>早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。
例えば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用している事からも解る。
突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られている。
その中に無文土器の製作技法で作られた甕が数%存在する。無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。
こうして出来あがった土器が板付Ⅰ式土器である。
(wikipedia)
論文よく読んだら?
なんでこっちが理解するまで説明しないといけないんだよ。
熱帯ジャポニカが夜臼Ⅰ式段階の時に半島から来たもおかしいしな。
日本は少なくとも6000年前から陸稲で稲作やってのは分かってのに。
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
【 刻目突帯文土器 (縄文式土器) 】
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
この時代、土器の構成は、甕(かめ)と、浅鉢、深鉢が使われ、刻目突帯文は甕にほどこされていた。代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
刻目突帯文土器は、西日本の最後の縄文土器であり、水田農耕の開始の時期にも主要な土器であった。
早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。
例えば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用している事からも解る。
突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られている。
その中に無文土器の製作技法で作られた甕が数%存在する。無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。
こうして出来あがった土器が板付Ⅰ式土器である。
(wikipedia)
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲(りくとう / おかぼ)】
畑で栽培されるイネ。野稲とも呼ばれている。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
>ジャポニカには熱帯型ジャポニカと温帯型ジャポニカが存在することが遺伝学的に明らかとなっている。
新石器時代の長江中・下流域の栽培稲は熱帯型ジャポニカであるが、温帯型ジャポニカは山東半島以北の膠東半島、遼東半島、朝鮮半島で生まれた可能性が高い。
夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
板付Ⅰ式からⅡ a 式の福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、夜臼Ⅱ式以降に洛東江下流域から福岡平野へ流入したものであ
る可能性が高い。
この文化系統から福岡市域を中心として板付土器様式が成立し、温帯型ジャポニカが瀬戸内から近畿へと西日本全体に広がり、弥生前期社会が成立する。
(九州大学 宮本一夫 2019)
コピペ連投でごまかしはいいよ。
韓国と九州大の説は藤尾が言うように矛盾してるし
藤尾のオクキョン遺跡の水田跡も誰も支持せず怪しい過ぎる
半島経由ルートが矛盾だらけだな
>>133
スペさんが勝ったところ見たことあるか?w (笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
【 刻目突帯文土器 (縄文式土器) 】
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
この時代、土器の構成は、甕(かめ)と、浅鉢、深鉢が使われ、刻目突帯文は甕にほどこされていた。代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
刻目突帯文土器は、西日本の最後の縄文土器であり、水田農耕の開始の時期にも主要な土器であった。
早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。
例えば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用している事からも解る。
突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られている。
その中に無文土器の製作技法で作られた甕が数%存在する。無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。
こうして出来あがった土器が板付Ⅰ式土器である。
(wikipedia)
(笑)
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲(りくとう / おかぼ)】
畑で栽培されるイネ。野稲とも呼ばれている。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
無文土器は支石墓と一緒に遼東半島から朝鮮半島に伝わったってコピペしてる論文に書いてあるけどw
散々北部漢族CHBじゃダメ、中国の研究だからダメって言ってたことだよw
韓国の突帯文土器(笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが
韓国の教授や九州大の教授の説だけど
(笑)
155 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 12:11:02.97 ID:umO4qPDp
無文土器は支石墓と一緒に遼東半島から朝鮮半島に伝わったってコピペしてる論文に書いてあるけどw
↓
【無文土器】
朝鮮半島における青銅器時代(無文土器時代)の指標となる土器。
土器の表面に,櫛目文土器の幾何学的文様のような施文がほとんど行われなず、無文のものが多いため、無文土器と呼ぶ。
同様の土器の無文化は沿海州でもみられる[。
無文土器の上限はおよそ前1千年紀前半期にあり、下限は北部で前3世紀頃、南部で紀元前後頃と思われる。
いやお前がはった論文に韓国の突帯文土器って書いてあんじゃん。しかも藤尾
>>134
>李弘鍾(イ・ホンジョン)や安在晧(アン・ジェホ)は1980年代から【韓国の突帯文土器】を西日本の突帯文土器の祖型とみる説を主張してきた。 スペさんブーメラン多すぎw しかも要点を全く理解してないw
①(笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
【 刻目突帯文土器 (縄文式土器) 】
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
この時代、土器の構成は、甕(かめ)と、浅鉢、深鉢が使われ、刻目突帯文は甕にほどこされていた。代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
刻目突帯文土器は、西日本の最後の縄文土器であり、水田農耕の開始の時期にも主要な土器であった。
早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。
例えば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用している事からも解る。
突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られている。
その中に無文土器の製作技法で作られた甕が数%存在する。無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。
こうして出来あがった土器が板付Ⅰ式土器である。
(wikipedia)
②(笑)
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲(りくとう / おかぼ)】
畑で栽培されるイネ。野稲とも呼ばれている。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
③(笑)
155 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 12:11:02.97 ID:umO4qPDp
無文土器は支石墓と一緒に遼東半島から朝鮮半島に伝わったってコピペしてる論文に書いてあるけどw
↓
【無文土器】
朝鮮半島における青銅器時代(無文土器時代)の指標となる土器。
土器の表面に,櫛目文土器の幾何学的文様のような施文がほとんど行われなず、無文のものが多いため、無文土器と呼ぶ。
同様の土器の無文化は沿海州でもみられる[。
無文土器の上限はおよそ前1千年紀前半期にあり、下限は北部で前3世紀頃、南部で紀元前後頃と思われる。
>>154
これも切り抜いてるけど【500年間も】熱帯ジャポニカを水田稲作してたのは、おかしいんじゃない?
って意味だぞ。
論文も読めないし人の意見も把握出来ないから
今スペさんやってんだと思うけど >突帯文土器の韓国祖型説について
李弘鍾(イ・ホンジョン)や安在晧(アン・ジェホ)は1980年代から韓国の突帯文土器を西日本の突帯文土器の祖型とみる説を主張してきた。
↓
基本的には畠稲作の土器は突帯文土器なので、韓国から水田稲作文化とともに突帯文土器がもたらされたという李や安の説に同意することは難しい。
「弥生時代の開始年代 AMS炭素14年代測定による高精度年代体系の構築」 藤尾慎一郎
(2005年)
さすがに切り抜きコピペで勝利宣言とか酷いよ
せめて読んでからにしなよ
>>154
これの一つ前に図まで付けて、ちゃんと弥生期まで熱帯ジャポニカが水田で稲作してたって書いてあるから、普通に理解してると思うぞ。勘違いして勝ち誇ってるとか、ホント恥ずかしいからやめた方がいいw 論文を読み解く最低限の考古学の知識と日本語読解力が必要なのに
その指摘に対して「人身攻撃」って言うのほんとw
大学で教授に指摘されたら人身攻撃だ!って反論するのかしらw
そしたらもう来なくていいよって言われるって
【夜臼Ⅰ式】段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
【夜臼Ⅰ式】段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
(九州大学 宮本一夫 2019)
↓
(笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
【 刻目突帯文土器 (縄文式土器) 】
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
代表的な刻目突帯文土器は【夜臼式】土器、山ノ寺式土器である。
(wikipedia)
(笑)
53 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
菜畑遺跡って水稲だから温帯ジャポニカでしょ?まだ熱帯ジャポニカも混在してたらしいけど。
(笑)
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲(りくとう / おかぼ)】
畑で栽培されるイネ。野稲とも呼ばれている。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
陸稲を先に栽培し、水稲があとからと断定するには、世界中のイネをもっと多く研究する必要があります。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授。2008年、新潟大学農学部教授を経て現職。)
適当に飛ばし読みして都合の良いところだけ切り抜くから人の意見とか要点が理解出来ないのか、本当に認知に問題があるのか。ここまで行くとなんか引く。
>★夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
(九州大学 宮本一夫 2019)
↓
(笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
★韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
刻目突帯文土器 (縄文式土器)
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。代表的な刻目突帯文土器は★夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
(wikipedia)
(笑)
53 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
菜畑遺跡って水稲だから温帯ジャポニカでしょ?
(笑)
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲(りくとう )】
畑で栽培されるイネ。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授)
論文もだけど人の意見も都合よく切り抜いて勝利宣言とか
本当に恥ずかしいからやめた方がいいぞ
>57既にその名前は使われています2021/08/13(金) 17:49:50.58ID:/ggTZD4C
弥生期に入って【水稲農耕に切り替わっても熱帯ジャポニカはまだ結構残ってる。】
菜畑は水稲だから普通に温帯ジャポニカ。ただ熱帯ジャポニカも混ざってる。
薄いとこはが温帯ジャポニカ
【弥生時代時代以降の遺跡から見つかった熱帯ジャポニカの事例】日本人はるかな旅4 イネ、知られざる1万年の旅/NHK出版
>60既にその名前は使われています2021/08/13(金) 18:21:18.69ID:/ggTZD4C
ん? 菜畑遺跡は紀元前10世紀から半島の温帯ジャポニカが紀元前5世紀に入ってくるまでの【約500年間】
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
この中国から直できた温帯ジャポニカのRM1-bはさらに後に入ってきたってこと?
中国と日本のが水田が古いのに?
>2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲【温帯ジャポニカ】のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査で
SSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a~hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。
朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。
RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、
江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が確認された。
さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、
温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、
温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している
「温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認」
残念だったねw
【水稲は朝鮮半島を経由してきた】
「日本人はるかな旅」イネ、知られざる1万年の旅 (NHK出版)
>考古学的な資料によると、日本列島に渡ってきた水稲は朝鮮半島を経由してきたと考えられている。
実際、RM1の多様性のデータとこの考えとこの間に矛盾はない。
(佐藤 洋一郎)
>>176
これもスペさんが何を理解してないかが分からないんだけど
突帯文土器って大きな括りの中に夜臼式土器(Ⅰ式・II式)があって
それに似た土器が朝鮮にもあるからⅠ式の時に熱帯ジャポニカが
II式の時に温帯ジャポニカが日本に伝わったんじゃないかって主張してるのが九州大とか韓国の教授だぞ。
それを半島にある突帯文土器は畠作農耕文化のものだから違うと否定してるのが藤尾だよ。
https://123deta.com/document/nq7xr7dy-論文PDF総合研究大学院大学学術情報リポジトリ.html >★夜臼Ⅰ式段階の宇木汲田貝塚の炭化米はDNA分析からは熱帯型ジャポニカを主体とするものであった。
夜臼Ⅰ式段階は、朝鮮半島南江流域から、熱帯型ジャポニカが唐津平野から糸島平野に流入した可能性が高い。
(九州大学 宮本一夫 2019)
↓
(笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
★韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
刻目突帯文土器 (縄文式土器)
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。代表的な刻目突帯文土器は★夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
(wikipedia)
刻目突帯文土器 (縄文式土器) ←
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
代表的な刻目突帯文土器は夜臼式土器←、山ノ寺式土器である。
(wikipedia)
やめたげて、理論詰めしたらスパさん壊れちゃう!
彼はただ最後に書き込んで勝利宣言したいだけなのよ!
>>183
その話と朝鮮半島のと照らし合せて結論づけたのが佐藤洋一郎の
>日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、
江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が確認された。
って話だぞ。ちゃんと読みなよ。
ほんと読解力ないな。 スペさんは文章考えたら全てブーメランになっちゃってるからね 中国キムチみたいに
だから切り貼り捏造して(苦笑)とかするしかないんだ
(苦笑)なんて20年ぐらい前のセンスだけどねw
>>189
だから井澤 毅は
>その際は,朝鮮半島の在来種は一切解析していないので
って事で矢印に半島を含めてないけど
佐藤洋一郎はそれに半島の稲も分析した結果
中国と日本にしかないRM1-bが見つかって
江南ルートは確実にありましたって内容だよ。
マジで理解力なさすぎだよ。これで散々、高卒がーとか言って
色んな人を人身攻撃してたのか。 (笑)
53 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
菜畑遺跡って水稲だから温帯ジャポニカでしょ?
(笑)
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲(りくとう )】
畑で栽培されるイネ。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授)
>>196
だから、わざわざ陸稲の解説せんでもそれ前提で話してるよ。
水稲農耕に切り替わっても陸稲(熱帯ジャポニカ)でやってたって図入りで解説してたじゃん。>>179
切り抜いてなかった事にしてるけど。
マジで嘘ついてでも一瞬でもいいから精神的勝利に浸りたいんだな。 読解力ゼロなうえ捏造して精神的勝利とか、どっかの国の人みたいだね。惨め過ぎるーw
知能指数(=IQ)は、一般にIQ85-115が「平均的」とされています。
おおむね70以下は、「知的障害」の可能性が考えられる範囲です。
(※「知的障害」の基準は、自治体によって異なります)
その境い目にあたるのが、「境界知能」と呼ばれる領域です。
その数は、統計学上は人口の約14%、1,700万人に上るとされています。
グレーゾーンってやつでスペさんの文章読解力の無さもコレね
ホントに似たような反応するのよね
>>186
毎回1000ゲッツ出来ないからスレ立ててたのかw
すまんなスペキチ毎回1000取ってしまってw (笑)韓国の突帯文土器(笑)
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
刻目突帯文土器
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
代表的な刻目突帯文土器は、夜臼式土器、山ノ寺式土器である。
(wikipedia)
>煮沸用の土器、甕の口縁部と胴部に刻目のある突帯文をめぐらすタイプは、夜臼式とよばれる。
ゆるく外反する口縁端部に刻目を加えるタイプは、板付式土器とよばれ、両者は、縄文時代から弥生時代へ移行する過渡期において共存することが確認されている。
(福岡市埋蔵文化財センター)
https://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/myc/doki/81.html
(岡山大学)
日本で発見される土器のほとんどが装飾されつるのよね
代表的なのは時代の名前にもなった縄文土器
凄いのだと火炎土器みたいに実用性無さそうなのまで
当時の人たちの「遊び」の部分と「祭祀」の部分をどう区別するのかまだ定まってなくて諸説
ただ祭祀に使われたのは大きくて派手な装飾があったね
朝鮮半島を代表する土器
むもんどき!
くしめもんどき!
はあんまし装飾ないのよね、だから分類しづらい
ちなみに櫛目文土器は遼河文明の興隆窪文化から伝わった
なんかよっぽど悔しかったんだな。まだ言ってるよw 自分で貼ったコピペ>>134にも「韓国の突帯文土器」て出てるのに。便宜上そう言ったってだけでしょ。スペさんあまりにも読解力無いからw (笑)韓国の突帯文土器
136 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が熱帯、温帯ジャポニカや水田稲作文化を伴って菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
↓
→板付Ⅰ式←からⅡ a 式の福岡市有田遺跡の炭化米は、紀元前6~5世紀のものであるが、炭化米の DNA 分析では温帯型ジャポニカであった。
温帯型ジャポニカは、→夜臼Ⅱ式←以降に洛東江下流域から福岡平野へ流入したものである可能性が高い。
(九州大学 宮本一夫 2019)
刻目突帯文土器
>西日本の縄文時代晩期終末を代表する土器で、弥生土器に連なる簡素な形をしていた。
代表的な刻目突帯文土器は、→夜臼式←土器、山ノ寺式土器である。
(wikipedia)
>煮沸用の土器、甕の口縁部と胴部に刻目のある突帯文をめぐらすタイプは、→夜臼式←とよばれる。
ゆるく外反する口縁端部に刻目を加えるタイプは、→板付式←土器とよばれ、両者は、縄文時代から弥生時代へ移行する過渡期において共存することが確認されている。
(福岡市埋蔵文化財センター)
https://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/myc/doki/81.html
(岡山大学)
(笑)水稲だから温帯ジャポニカ
53 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
菜畑遺跡って水稲だから温帯ジャポニカでしょ?
60 既にその名前は使われています 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
↓
【陸稲】
畑で栽培されるイネ。
水稲に較べて水分条件により厳しい畑状態に適したイネと位置づけられているが、植物学的な差異は無く、
また歴史的にも古くから陸稲として栽培されたものから、水稲から品種改良されたものまで存在している。
(wikipedia)
>陸稲と水稲の違いは、品種特性もありますが、基本的には栽培方法です。
陸稲は、おもに熱帯ジャポニカ種が多いのですが、陸稲で育てたイネを水田で栽培できますし、その逆も可能です。
(大坪研一 新潟薬科大学応用生命科学部教授)
たぶん>>199が言うようにグレーゾーンだから調べてもらった方がいいぞw このコピペだって日本語おかしいって馬鹿にされるようになったから自分で文章書けなくなったんよね
序文だけ切り出して勝利宣言しててなんか変だと思ったけど
本人にしたらそれが当然の行為だったんだね
(笑)韓国の突帯文土器
136 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
韓国の突帯文土器が菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
(笑)水稲だから温帯ジャポニカ
53 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
水稲だから温帯ジャポニカでしょ?
(笑) 温帯ジャポニカが中国を経由して日本に伝播したことを確認 [60] (wikipedia)
180 2021/08/14(土) 14:39:38.17 ID:i3k//idr
さらに、2008年には農業生物資源研究所が
「温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認」
残念だったねw
>>207
これ>>179をピックアップしたものだからそこだけ切り抜いて小馬鹿にしてるけど、普通に読解力あれば>>192と理解出来るぞ。スペさんマジでヤバいよ。心配になるレベル。 (笑)
>どこにも朝鮮半島のことは記述していないのであるが,アジアの地図の上に書いた矢印が朝鮮半島をかすっていなかったため,誤解を与えたようなのである。
また,人によって,関心のあるポイントが微妙に異なっていることにも驚いた。
(農業生物資源研究所 井澤 毅)
(笑)
180 既にその名前は使われています 2021/08/14(土) 14:39:38.17 ID:i3k//idr
さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、
温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している
「温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認」
残念だったねw
(笑)
>多分,問い合わせをした視聴者の方にとっては自分が信じる説に近い「矢印」であったのだと推察できる。
できることなら,我々が書いた論文を読んだ上で,NHK に問い合わせをしていただきたかった。
(農業生物資源研究所 井澤 毅)
まだやってた。スペさんは一応、江南説は認めてるらしいよ。
認めてるけど、なぜか火病起こしてそのあと関係ないコピペ連投するんだよね。
たぶん認めるなってお達しが出てるからだろうけど
不自由だよね…色々。
(笑)136 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
>韓国の突帯文土器が菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
(笑)53 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
>水稲だから温帯ジャポニカでしょ?
(笑)180 2021/08/14(土) 14:39:38.17 ID:i3k//idr
>さらに、2008年には農業生物資源研究所が
「温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認」
残念だったねw
これさ
揚げ足とってるつもりなのかな
全然的外れでピエロになってるけど
尊敬する人はひろゆきですwとか
>問い合わせをした視聴者の方にとっては自分が信じる説に近い「矢印」であったのだと推察できる。
できることなら,我々が書いた論文を読んだ上で,NHK に問い合わせをしていただきたかった。
(農業生物資源研究所 井澤 毅)
(笑)136 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
>韓国の突帯文土器が菜畑や板付遺跡に流入したってのが韓国の教授や九州大の教授の説だけど
(笑)53 2021/08/13(金) 17:28:47.85 ID:SEI/CTch
菜畑遺跡って水稲だから温帯ジャポニカでしょ?
(笑)60 2021/08/13(金) 18:21:18.69 ID:/ggTZD4C
熱帯ジャポニカを水田稲作してたってこと? おかしくね?
笑)180 2021/08/14(土) 14:39:38.17 ID:i3k//idr
>さらに、2008年には農業生物資源研究所が
「温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認」
残念だったねw
(笑)
136 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
>韓国の突帯文土器が菜畑や板付遺跡に流入した
>韓国の突帯文土器が菜畑や板付遺跡に流入した
ホントだ。江南説をスペさん認めてるけど色々と不都合があるんだなw
でもちゃんと明確にしといた方がいいよ。スペさんは江南説肯定派です!
【 夜臼式 (刻目突帯文土器) 】
>移住者が最も多く活動的であったこの段階に土器組成を換えるような変化が北部九州に生まれる。それが壺型土器を伴う夜臼Ⅰ式の成立である。
その土器組成は縄文系の深鉢・浅鉢を主体とするもので、壺形土器は朝鮮半島南部の無文土器を模倣することによって生まれている
【 板付式 (刻目突帯文土器) 】
>福岡平野を中心として板付祖形かめの系譜の中に板付式かめが生まれる。
紀元前6~5世紀頃に壺形土器と板付式かめを組成とする板付土器様式が成立していく。
この文化系統から福岡平野を中心として板付土器様式が成立し、環濠集落や列状墓を伴う弥生文化が成立する。
(九州大学・宮本一夫 2019)
>無文土器の祖型は遼西東端から遼河流域に分布する偏堡文化にある可能性が高まり、偏堡文化の伝播により、朝鮮半島南部で無文土器早期の突帯文土器が生まれた可能性がある。(九州大学)
↓
刻目突帯文土器 ≧ 板付式土器、夜臼式土器
↓
(失笑)
136 2021/08/14(土) 09:45:39.62 ID:sIRGwRqB
>韓国の突帯文土器が菜畑や板付遺跡に流入したってのが九州大の教授の説だけど