マイナビニュース1/3
https://news.mynavi.jp/article/20220103-2240470/
■「東京─箱根」に決まった理由
「マラソン強化を目指し、各大学の学生ランナーたちに刺激を与えたい。そのために大学対抗の駅伝競走を開きたい」
1910年代後半に金栗四三は、そう提案した。日本人初の五輪ランナーとしてストックホルム大会(1912年)に出場するも途中棄権の惨敗。その後に目指したベルリン五輪は、第1次世界大戦が激化したことで開催されなかった。そのため獨逸学協会学校の教員となった金栗が、後進の指導に力を入れ始めた頃のことだ。
生徒たちを指導する中で、金栗はひとつのことに気づいた。マラソンの練習は本来、自発的に行うものである。にもかかわらず選手たちは、指導者から「やれ!」と言われて受け身的に練習をしている。これでは、強くなれない、と。
「走らされる」ではなく「走る」「走りたい」という自らの強い想いが成績向上には必要なのだ。対抗戦となれば、各校とも力の入れようが違ってくる。選手たちも、目的意識と責任感を持って練習に取り組むようになるはずだ。そのことが、<日本マラソン界のレベルアップにつながる>と金栗は考えた。
すぐに彼は動いた。このプランを持って各校をまわり参加を呼びかける。即座に反応したのは、東京高師(現・筑波)、早稲田、慶應、明治の4校だった。ほかのいくつかの大学も「準備が整った段階で参加したい」と前向きな姿勢を見せる。
メディアにも働きかけた。報知社(現・報知新聞社)がこれに賛同し、話は一気に進む。コースに関しては、いくつかの案があった。「東京─日光」「東京─水戸」「東京─箱根」。
「東京─箱根がいいでしょう」
そう金栗は話した。走る者も観る者も、風景、そしてレースの駆け引きを楽しめた方が良いと考えたからだ。このコースは富士山を見渡せ、史跡にも富む。また上り下りの起伏も激しく展開がドラマチックになると金栗は考えた。
区間は5つに分けた。東京─鶴見─戸塚─小田原─箱根。初日は、東京から箱根に向かい(往路)、2日目に箱根から東京に戻ってくる(復路)。コースとともに開催時期を決める必要もあった。快適に走れるのは春か秋である。だが、それでは面白くないと思った金栗は、こう提案する。
「心身を鍛えるという意味でも酷寒か猛暑がよいのではないか。2月か8月に開いてみてはどうだろう」
反対意見はなく、2月開催が決まった。「大学対抗駅伝競走(四大校駅伝競走)」の開催が発表されると、参加を表明していた4校の動きが慌ただしくなった。1チーム10人編成となるわけだが、各校で出場選手を決めるための予選レースが開かれ、ユニフォームも準備された。まずはコースを知っておかねばと、東京─箱根間で練習に励む学校もあった。
■最終10区でドラマが…
1920年2月14日、土曜日。東京高師、早稲田、慶應、明治の選手たちは午前中の授業を受けた後、スタート場所である報知社(東京・有楽町)前に集まった。午後1時にレース開始。各校の選手が伴走者とともにコースを駆けていく。鶴見、戸塚、平塚を経て小田原の中継所を過ぎた頃には、すっかり日が暮れていた。
真っ暗な山道は走れない。そのため伴走者たちが懐中電灯を持ちコースを照らした。また、地元の青年団も協力もあり、いくつもの場所に篝火が焚かれた。選手の通過を告げる猟銃音が箱根路に響き渡る。そこで行われていたのは現在の「箱根駅伝」のような洗練されたレースではなかった。テレビもない時代の牧歌的な競争─。
午後8時過ぎ、トップで箱根に辿り着いたのは明治。2位・東京高師、3位・早稲田、4位・慶應の順だった。
復路競争が行われる2日目、箱根は大雪に見舞われた。そんな中、初日の往路でトップに立った明治から順に各校の選手がスタートしていく。この大会で審判長を務めた金栗は、スタートを見届けた後、電車で小田原へと向かう。道路には雪が積もり車が走れる状態にはなかった。
小田原からは、ゴールとなる報知社前へと車で急いだ。レースは往路トップの明治が、最終中継所の鶴見まで首位の座を守っていた。ところが最終10区で2位につけていた東京高師のアンカー・茂木善作が猛スパートをかけ、明治の選手をゴール間近で抜き去る。東京高師が栄えある第1回大会の優勝校となった。
大会は大いなる盛り上がりを見せて大成功。母校である東京高師が逆転優勝を果たしたことも嬉しかったが、レース後に金栗は、それ以上の感慨に浸った。
(沿道の声援は凄かった。走る者だけではなく、観る者にも多大な興味を持ってもらえた。将来、駅伝やマラソンを走ってみたいと思った子どもたちも多かったはずだ。この駅伝がマラソン競技での日本の躍進につながるに違いない)
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