昔は数式の多い数学書を作るコストは高かったし、
用紙もそんなにふんだんに使える状況には無かったんだと思うよ。
何より値段が高くなる。
そのため本文ですら、内容の冗長さを極力削って、コンパクトに
完結に、短く書こうというスタイル。漢文の文章のような理路整然さ
を重視したのではなかろうか?しかし学習者にとっては、完成されすぎた
あまりにも冗長性のない記述は、却って理解を妨げるものである。
ちょっとでも見落としたり読み落としたりしていると、後がまるで
わからなくなるような記述法は良いものだとは言えないだろう。
大事なことは強調したり二度三度とくり返して書く方が良いのだ。
それに、数学書のスタイルは、なぜそういう定義をするのか、
なぜそういうものを考えるのかは全く述べずに、まず定義を
述べて、それからどんどんと演繹でもって、どこにつれていかれるのか
わからない、まるでミステリー列車に乗せられたように進んで行って、
はっと気が付いてみると、終点に着いているという一本道のような
スタイルが好まれるようだが、それは既に内容を理解して良く
わかっている人が、その理解しているところのものを整理する形で
書くようなものであり、まだ知識のない、悟りを得ていない人に
対する導入の記述としては、あまり良くないのではないか?
なぜそのようなことを考えるに至ったかとか、どのように
して今のような理論体系に近づけていって完成させたのかという
大工が家を建てていく過程のようなものが示されずに、完成
済みのもの、完璧なものを最初から見せては、そのような
分野の研究のあり方を真似て受け止めることは出来ないのでは
ないだろうか?試行錯誤の過程が欠けているのは作品としては
良いだろうが、真似て学ぶのには不適かもしれない。
なぜそう定義するのか、なぜそのような道筋をたどるのかは、
そう定義しないと不味いことがあるとか、そのような道筋
ではないとうまく行かないからとか、エレガントに導けない
などの裏の事情があったはずなのだ。